ちくま学芸文庫

指導者を評する、捉える――大久保利通再考
清沢洌『外政家としての大久保利通』評

『外政家としての大久保利通』は、自主独立の評論家・外交史研究家の清沢洌が太平洋戦争中に執筆し、1942年に中央公論社より刊行されました。大久保利通の外交を評価するうらに、太平洋戦争下の日本の現実政治への弾劾の意が感じられる著作です。刊行から80年たつ今、本書をどう読むか。日本政治外交史がご専門の佐々木雄一さんに評していただきました。(PR誌『ちくま』より転載)


 清沢洌は、戦前・戦中の言論人として、また『暗黒日記』の著者として知られる。同時に、外交史研究も為した。外交史研究における代表作は、『外交史』、『日本外交史』、そして『外政家としての大久保利通』である。『外政家としての大久保利通』はかつて中公文庫で刊行されていたが、この度、昨年大久保の評伝を上梓された瀧井一博氏の解説を得てちくま学芸文庫として刊行されるとのことで、大変喜ばしい。

 今読むと、本書で描かれている大久保像は目新しくはない。現在では草創期の明治国家を導いた名指導者としての評価は研究上確立していると思われるのであるし、歴史ファンも、冷徹だといって大久保を毛嫌いする人はもはやあまりいないであろう。内政家として世に知られているわりに外政家としての大久保は案外紹介されていないという本書冒頭の指摘に関しても、ほぼ同様のテーマで勝田政治『大久保利通と東アジア 国家構想と外交戦略』(吉川弘文館、二〇一六年)といった著作がある。もっとも勝田書でもなお、従来大久保の研究やイメージは内政面に寄っていたとされている。本書は、大久保論ないし大久保研究史上の先駆的作品として読むことができる。

 ただ筆者は、本書の現代的な読み方としては、清沢の大久保評価を再考するように読むのがよいと思っている。すなわち、自由主義の言論人であった清沢は、日中戦争から太平洋戦争へと進む時代状況のなかで、言論活動を封じられていく。それを埋め合わせるように、外交史研究に取り組んだ。したがって清沢の外交史論は、単に外交史研究であるだけでなく、外交史の叙述に託した同時代への言であった。

「現実主義者たる大久保が征韓論に反対したのは朝鮮や清国が怖いからではなかった。この大陸に手を染めれば必然に長期戦になり、その背後勢力たる魯の利用するところとなることが明かであったからだ」
「明治の政治家は決して責任を回避しない」

 こうした記述の裏には、いうまでもなく同時代への問題意識が見て取れる。そしてたしかに、大久保と眼前の日本の指導者たちを対比して清沢が前者の優れていることを強く感じたのは無理からぬところだろう。

 しかし、である。清沢の描く大久保は、あるいは評価が高くなって以降現在に至るまでの大久保像もそうした傾向があるかもしれないが、名指導者すぎないだろうか。本書を読むと、大久保は冷静で、大局観があり、智略があり、責任感がある。指導者に必要な資質を一身に集めているかのようである。

 大久保以降で名を成した日本の外政家に、伊藤博文や陸奥宗光、小村寿太郎、原敬らがいる。彼らの事績であるとか優れた点を記すのはたやすい。ただ他方で、欠点や失敗もいくらでも挙げることができる。大久保は、どうなのだろうか。

 もし外政家としての大久保の欠点や失敗がなかなか浮かび上がってこないとすれば、一つには、行き着くところまで行き着かない時代の指導者だったからかもしれない。例えば伊藤博文は大久保と同様、東アジア全体を見すえた政策構想を有し、対清協調志向だった。甲申政変後、清の李鴻章との間で天津条約を結んだ当事者でもあった。しかし第二次伊藤内閣期、つまり伊藤が首相のときに、日本と清は戦争に至った。また伊藤は朝鮮(韓国)の独立を支える考えを持っていたものの、日露戦争後、韓国統監として韓国側の反発に直面した。それが、二〇世紀初めまで生きた指導者・伊藤博文のたどった道であった。大久保があと一〇年、二〇年生きた場合、同じく意に染まない展開を経験した可能性は十分にある。

 歴史上の指導者の事績や美点や苦悩を知ることは、現代的にも政治を見る眼を、ひいては政治を豊かにする。とはいえ指導者を評する、捉えるというのは、讃えるのとは異なる。清沢が本書で描き出す名外政家・大久保利通の姿を味わったうえで、その限界であるとか他の定評ある指導者との対比に思いめぐらせてみるとよいだろう。

 

 

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