ちくま学芸文庫

「仏教の面白さ」を伝える名著
定方晟『須弥山と極楽 仏教の宇宙観』解説

三千大千世界、輪廻、地獄、極微……。壮大な仏教の世界観へいざなう、定方晟著『須弥山と極楽』がこのたび電子化されました。本書の文庫版に収録した解説を公開します。解説者は、本書を読んだことがきっかけのひとつなり、仏教学者になったという佐々木閑さんです。

 本書は大きく分けて四部構成になっている。第一部は、アビダルマ仏教の代表的作品である『倶舎論』の中で語られる仏教的宇宙観の紹介。アビダルマ仏教は現代日本においてはほとんど無視されているが、実際にはあらゆる仏教を語る際の基本となる哲学体系であり、第一部で定方晟博士は、その、今はもう忘れ去られている貴重な世界観を緻密に、そして驚くべき分かりやすさで語ってくれるのである。この第一部に関しては、のちほどあらためて詳しく解説する。

 第二部は、浄土信仰の土台である極楽の考察。アビダルマの宇宙観が、大乗仏教発生以前の阿含経(シャカムニの教えを一番色濃く残している経典群)を元にして組み立てられたものであるのに対して、極楽浄土のイメージは、新たな仏教運動として現れて来た大乗仏教の中で生み出されたものである。同じ「仏教の宇宙観」とは言っても、宇宙の構造も、成立過程も、そしてそこで生きる生き物たちの状況も、アビダルマの宇宙観とはまったく異なっている。この極楽世界は、今でも浄土宗や浄土真宗などの宗派において盛んに説き広められており、多くの日本人にとってなじみのある宇宙観であるから、著者の定方博士があらためてここで紹介する必要はない。したがって第二部は、極楽の詳細な紹介ではなく、その極楽という新たな世界が、一体どこから生まれてきたのか、という歴史的考察が主になっている。ここは定方博士の面目躍如、地球的な広い視野で歴史的に仏教を見ていこうとする博士の魅力的な学問姿勢が明確に表れている。極楽の起源はどこにあるのか。ユダヤ教の「エデンの園」なのか、あるいはエジプトの「アメンテ」およびギリシャの「エーリュシオン」の思想から派生してきたものなのか、といったきわめてスケールの大きな仮説を、ギリシャやローマの資料までも駆使して検証していこうとする(定方博士は後者を支持)。是非の決着はともかく、知的興奮を呼び起こす内容である。

 第三部は地獄の解説である。仏教学の世界においても、地獄のことはよく分かっていない。閻魔、三途の川、賽の河原や地蔵菩薩と言った、誰もが言葉では知っていながら、その本性も歴史もよく分かっていない事柄を取り上げ、『リグ・ヴェーダ』やゾロアスター教の聖典『アヴェスター』、ギリシャの『オデュッセイア』にまで触れながら、その起源や特質を突き詰めていく。この第一部から第三部まで、いずれも自在闊達に学問世界を遊歩する定方博士の「学ぶ喜び」が満ちあふれた快作である。

 そして最後の第四部。ここは第三部までの華やかな仏教解説にくらべて、急に内容が思索的になり、定方博士の仏教に対する思いが、しっとりと柔らかく語られていく。仏教、特に日本の仏教が「空」の思想に偏向するあまり虚無主義的になっていることを嘆き、古代仏教が持つ科学性と現代性を強調し、最後は「仏教宇宙観が存在した事実は科学と宗教を統一した新しい世界観の可能性を示すものである」と締めくくる。第一部でスマートな研究者として颯爽と登場した定方博士が、この第四部では、胸中の熱い想いを真顔で語る仏教者へと変貌する。その変わり様がたまらなく魅力的なのである。

 突然であるが、少しだけ私ごとを語らせてもらいたい。私は二十歳すぎるまで仏教にはまったく興味がなく、科学系の道をめざしていた。仏教などというものは、「むにゃむにゃ拝んで、良いことがありますようにと願うだけの、知性とは無縁の世界だ」と思い込んでいたのである。まだそんな風に愚かだった頃、京都の同じアパートで暮らしていた従兄弟が、「これ面白いよ。興味ないだろうけど」と言って見せてくれたのが本書『須弥山と極楽』だった。従兄弟は当時、龍谷大学の学生で、仏教学を学んでいたのだが、「今度、とても役に立つ画期的な本が出た」という仲間内の評判で早速買い求め、(おせっかいにも)仏教に何のありがたみも感じていない私にまで、従兄弟のよしみで勧めてくれたのである。

 タイトルを見ても何のことかさっぱり分からない。「須弥山ってなんなんだ。どこにある山なんだ。それと極楽がどう関係するんだ」と愚かしい疑問を抱きながらも、従兄弟のよしみで少し読み出した。とたんに引き込まれ、従兄弟のよしみなどすっかり忘れて読みふけったのである。

 それですぐ進路を変更して仏教学の道に入った、という訳ではないが、その後いろいろあって、気がつけば仏教学者になっていた。過去の愚かな自分を振り返って見る時、『須弥山と極楽』との出会いは、「仏教というのは本当は面白くてワクワクする世界なのだ」ということに気づいた最初の体験だったように思う。「仏教を学ぶことは喜びと興奮の連続だ」と感じながら学問の道を歩んできたが、その原点は『須弥山と極楽』の読書体験なのである。

 今回、その敬愛する書物の解説を書かせてもらえることになった。私の人生を大きく後押ししていただいた定方晟博士のこの御本と、今また縁を結ぶことのできた不思議に心からの感謝の意を表したい。

 そして、だからこそ、この四部構成の書物の、一番地味で目立たない第四部を強く推薦する。学者は皆、その内奥にそれぞれが、学問に対する独自の思いを持っている。それは普段の論文や研究書には現れてこないのだが、時として文面ににじみ出ることもある。本書の第四部はそういった定方博士の学者としての矜持が感じられる小気味よい一節になっているのである。

 第一部は驚異的に面白い。第二部は見晴らしの良さに心が躍る。第三部は緻密な考察に関心する。そして第四部では定方晟という学者の心意気が分かる。そういった構成の本書は、全体として「仏教の面白さ」をストレートに読者に伝えてくれる、希有な名著である。読者の方々には、それを存分に味わっていただきたい。

 順序が逆になったが、最後に、第一部のアビダルマ仏教の宇宙観について解説しておく。アビダルマの奥深さに心惹かれる人が増えることを願っている。

 

 仏教は二千五百年という長い歴史を持つ宗教であるが、その間、様々な思想を生み出してきた。もちろん、すべての仏教思想のおおもとにはシャカムニ(お釈迦様)個人の悟りの体験があるのだが、それはあくまでシャカムニが弟子や信者たちを個別に指導した際の言行録として記録されているにすぎず、シャカムニが一つの完結した世界観として仏教を完成させたわけではない。シャカムニの時代に最も近い最古の仏教文献である「阿含経」(ニカーヤとも呼ばれる)を見ても、その内容は断片的であって、体系化された教義といったものは書かれていない。

 創設以来二、三百年間、仏教はこういった膨大かつ断片的な教えをそのまま守りながら存続していたが、やがてそれを一つの体系としてまとめようという動きが起こってくる。その一番の理由は、仏教が地理的に広範囲に広がったことで、各地の仏教教団ごとに教えの解釈に違いが生じ、それが教団間対立を生み出したことにあると思われる。たとえシャカムニの言行録を共通の聖典として信奉していても、その断片的な文言をどう理解するかという点で、異なる見解を持つ複数のグループが生まれてくるのは自然な流れとも言えよう(それらのグループのことを仏教世界では「部派」と呼ぶ)。教えをめぐって部派どうしで対立が起これば、自分たちの考えの正統性を裏付けるための根拠が必要になってくる。そしてそのためには、「シャカムニの教えを、遺漏なく、かつ正確に語る聖典」が必要となってくる。こうしてシャカムニが亡くなって数百年後に、教えを総合的に語ることを目的とする新たな文献群が、部派単位で生み出された。それをジャンル名としてアビダルマと呼ぶ。

 相互に対立する仏教部派が、それぞれの正統性を主張するために作成した文献群がアビダルマであるから、当然ながら部派毎に異なるアビダルマが作成されることになった。「仏教世界全体が承認する最高権威のアビダルマ」などというものはあり得ず、部派毎に個別に、「これこそがシャカムニの教えである」として、内容の異なるアビダルマ文献が作成されていったのである。

 そういった複数系統のアビダルマのなかでも、日本などの東アジア仏教圏に最も強く影響を残したのが、もともと北西インド(ガンダーラ、カシュミール、マトゥラーといった地方)で勢力の強かった説一切有部という名前の部派が作成したアビダルマである。北西インドで説一切有部の学僧たちが書いた、十本を超えるアビダルマの本は、その後シルクロードなどの流通路を通って中国へ伝わり、そこで漢文に翻訳された後、日本にまでもたらされた。飛鳥時代から奈良時代にかけての事である。それがその後の仏教界では、仏教を学ぶ者にとっての必須の教科書として重視されるようになり、大いに重用された。そしてそこに描かれている世界観が日本文化を形成するうえでの基礎情報として広く受容されていった。説一切有部のアビダルマこそが、日本人の仏教観の基盤なのである。

 しかし現代においては、そのアビダルマを起源とする語句や慣習がポツポツと孤島のように日常生活の中に生き残っているばかりで、肝心のアビダルマはほとんど忘れ去られようとしている。帝釈天や梵天や四天王の名前は知っていても、その具体的な居場所や上下関係を知っている人は少ない。「輪廻」という言葉は普通に使っているのに、その本当の意味はよく分からない。「色即是空」という『般若心経』の文句には聞き覚えがあっても、その「色」とはなにかと聞かれても正しく答えられない、という具合に、アビダルマを知っていれば簡単に分かることもすっかり意味不明確となり、言葉や慣習だけが浮き草のように漂っているのである。

 このような状況にあって、説一切有部のアビダルマを誰にでも分かるように、秩序立てて語ってくれる解説書の存在はきわめて貴重である。そして本書、定方晟博士の『須弥山と極楽』の第一部は、まさにそういった、貴重なアビダルマ解説書の白眉とも言うべきものである。「類書がない」という評価は、研究者にとって最高の褒め言葉だと思っているが、『須弥山と極楽』には類書がない。アビダルマが語る宇宙の構造についてしっかり頭に入れたいと望む人は、まずこの本を読むべきであり、そして繰り返し読み返すべきなのである。

 

 

 

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