単行本

青椒肉絲の絲
新井一二三『青椒肉絲の絲、麻婆豆腐の麻――中国語の口福』ためし読み

新井一二三『青椒肉絲の絲、麻婆豆腐の麻――中国語の口福』は、青椒肉絲、回鍋肉、北京ダック、拉麺、餃子といった定番料理から、マレーシアや台湾の「幻の麵」など現地でしか食べられない料理まで、 中国・台湾でも活躍する作家が「ことば」を切り口に中国料理を解説する一冊。中国料理や中国語に関心がある方は必読の本書のうち、「青椒肉絲の絲」を公開いたします! ぜひお読みください。

 みなさまお馴染みの青椒肉絲(チンジャオロース)。青椒はピーマン、肉絲は豚肉のせん切りという意味ですから、材料そのままの単純な命名です。腰果鶏丁(ヤオグオジーディン)がカシューナッツと鶏肉賽の目め 切り(鶏丁)を指すのと同様で、中国料理の命名法中、最もわかりやすいタイプだと言えるでしょう。ちなみにカシューナッツが腰果と呼ばれるのは、その形状から。そして材料の取り合わせはシンプルを旨とするため、本場の青椒肉絲に筍たけのこが入ることは通常ありません。
 では、いったいなぜピーマンは青椒と、豚肉のせん切りは肉絲と呼ばれるのでしょうか。
 青は中国語でも日本語と同様、本来は空の色を指すことばでありながら、現在の色名に当てはめると、緑や黒など草木の色合いも含み得るものです。一方、椒の字はというと、もともと花椒(熟した山椒の果皮)が舌にもたらすピリピリ感を指しましたが、そこから転じて、胡椒や唐辛子(中国語では辣椒〔ラージャオ〕)など、さまざまな香辛料の名称に使われるようになりました。
 ピーマンは南米原産の辛い実が、各地に伝播するあいだに、野菜として食べられるよう品種改良されたもので、中国語名としては、色からつけた青椒以外に、形からとった灯籠(ちょうちん)椒(ドンロンジャオ)や柿椒(スージャオ)、さらに甘いという意味の甜を頭につけた甜椒(ティエンジャオ)という呼び方もあり、オレンジ色や黄色で実が厚く甘みの強いパプリカは、甜椒と呼ばれることが多いようです。
 そして肉絲(ロース)。
 中国語では、単に肉といえば豚肉を指すのが普通です。牛の場合は牛肉、羊なら羊肉と呼ぶところ、豚肉についてだけは単独で肉と呼ぶのです。また中国料理における、その重要な地位から、豚肉は大肉(ダーロー)と呼ばれることもあります。
 せん切りを指す絲という漢字は、糸の旧字体ですが、ただの糸ではありません。これは絹糸の意味なのです。木綿や麻、羊毛などから作られた糸であれば、中国語では線(シエン)となり、それぞれ綿線(ミエンシエン)、麻線(マーシエン)、毛線(マオシエン)と呼んで区別しますが、絲の字を使うことはありません。絹糸は格段に地位が高いのです。
 蚕(かいこ)の繭(まゆ)から絹糸を作り、布に織り上げる技術は、中国で紀元前三千年ごろに始まったといわれます。長い間、他国に生産技術が伝わらなかったため、エキゾチックな東方からヨーロッパまで遠路運ばれて行ったその道を、後にシルクロード(絲路〔スールウ〕)と呼ぶようになりました。日本では第二次大戦で途絶えた日中の国交が再開してすぐの1980年に、NHKでまさに「シルクロード」と題したドキュメンタリー番組が連続放映されて、喜多郎によるテーマ曲ともども大ブームになったことがありました。
 青椒肉絲を「ピーマンと豚肉のせん切り炒め」と訳すことは、直接的な意味としては間違いではありませんが、肉絲という語が喚起するイメージを完全に伝えているとは言えません。肉絲はあくまでも豚肉の絹糸切りであり、その繊細な絲が油をまとい絹のように輝く姿が明確にイメージされているのです。
 絹糸は輝き、美しい。これは紀元前から現在まで、中国語が代々伝え続けているイメージです。中国語で、「美しい」を意味する形容詞は「漂亮(ピアオリアン)」。この語は歴史上最初の部首別漢字辞典とされる『説せつ文もん解かい字じ 』(西暦100年)にも登場する古いことばですが、その意味するところは「絹の色」、なかでも「水中にある絹が光を反射したさま」なのです。そのために、さんずいの「漂」(=水にさらす、漂白する)という字のあとに、明るさを示す「亮」の字が置かれています。
 光輝くさまを美しく感じ、「漂亮」と呼ぶ。具体的、感覚的なものに抽象性をまとわせる。そこに中国語の魔法が存在するように思われます。水にさらした絹糸の輝きに美しさを見出す、その心の動きは、人をして、恋を知った日のことを思い出させるのではないでしょうか。人混みの中にあって、どうして彼が、彼女がいる場所だけがきらきらと輝いて見えるのか。その不思議さに打たれたことのある人は少なくないでしょう。水の中の絹糸が日光を受けてきらめいて見えた時、物理的な事象と、見る人の心の動きが結びつき、古代の中国人は美を発見して、「漂亮」ということばを後世に残したのです(ちなみに日本語の「面白い」ということばも、一説によれば、目の前が明るく、白っぽく見えるということから、楽しい、心地よいの意味を持つようになったというので、共通する部分があるようです)。
 青椒肉絲の絲は絹の糸です。丁寧に細く細く、同じ幅に切られた豚肉が、中華鍋の中で油をまとい、皿の上できらきら光る。その視覚的イメージが持てて初めて、この料理名が本当に理解できたと言えるでしょう。

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