ちくま学芸文庫

『論語』(ちくま学芸文庫)を上梓して

中国思想研究の泰斗による『論語』の新訳注書が遂にちくま学芸文庫より刊行されました。本書は、原文に新たな書き下しと明快な現代語訳、多年にわたる研究や考察を反映した詳細な注と補説、そして充実した解説から構成されます。これからの読者へ向けた決定版『論語』といってよいでしょう。本書が成るにあたって、訳注者はどのような考えで取り組まれてきたのか、その一端をお書きくださいました。

 ちくま学芸文庫の一冊として『論語』全訳注を上梓するのを機に、その解説に近現代の『論語』の訳注者の名前を列挙してみたところ、錚々(そうそう)たる学者が並んだ。ただ改めて感じたのは、文学や歴史の学者が目立ち、古代中国思想の専門家の独擅場ではないことである。もしプラトンやアリストテレスの翻訳を挙げれば、古代ギリシア哲学の専門家が大半を占めるであろう。また『論語』訳には学者以外の人のものも多く、解説にはそれも挙げてみた。既存の啓蒙的訳注を取捨しながら信条や経験で解釈するのが主だが、これも昔からの『論語』受容の型である。
 古代中国思想の専門家の手によらない訳注に不足しがちなのは、厖大(ぼうだい)な研究の蓄積の消化である。それではその道の研究者が作ればよいという話になるが、専門家ほど慎重にならざるを得ない。まず『論語』の注釈書は中国、日本、朝鮮で山のように作られた。また論文の数も日本のみならず東アジア各地で発表された数は尋常ではなく、全部読むことなど不可能である。それと解釈の傍証として利用する先秦の古典の多くが一時一人の手になるものではなく、長い年月をかけて今の形を取ったもので、各部分がどの時期のものかについては諸説紛々で収拾がつかない。また近年は古代の墓から新たな資料が各種発見され、新説を立てても新出資料によって容易に覆されてしまうことも少なくない。
 もっともかく言う私自身の専門は古代ではなく、朱子学を中心とした近世思想である。ただ以前、朱子の『論語集注(しっちゅう)』の全訳注を四冊本として刊行したことがある。この書は史上最も読まれた『論語』注であるが、この書はもちろんのこと、それがふまえている何晏(かあん)、邢昺(けいへい)をはじめとした諸注釈も学生時代から読み続けてきた。それに私のもう一つの専門が江戸時代の古学で、伊藤仁斎の主著の『論語古義』、それを継承批判した荻生徂徠(おぎゅうそらい)『論語徴(ちょう)』などにも長年なじんできた。かくていつのまにか『論語』自体も最も回数多く読んだ書となった。
 今回の訳注の仕事をお引き受けしたのは『論語』を身近に感じ、内容に魅了されてきたからだが、これは古代中国思想を専門としない他の『論語』訳注者の多くも同じであろう。それに私の場合には師匠のお二人が古代中国思想の専門家で、学部、大学院でこの方面の指導を受けていたことが加わる。お二人は津田左右吉の直弟子と孫弟子であった。そもそも日本近代において『論語』研究で新生面を開いたのは武内義雄『論語の研究』と津田左右吉『論語と孔子の思想』だが、前者は多くの訳注が言及するが後者は無視しているものが多い。津田学説には確かに極端なところがあり、またそれを全面的に受け入れると『論語』を解体することになる性格のものなのだが、それでも重要な指摘が処々にある。それが軽視されている状況に義憤のようなものを感じるのは、学閥的発想では無いつもりである。今回の訳注では公平に諸説を見渡すことを特徴にしたかった。
 ともかくも外付けの論理によるのではなく、まず『論語』そのものから立ち上がってくる姿の把握を軸とするのが今回の基本姿勢であった。それゆえ注解には解釈の根拠として『論語』の関連箇所のページ数をうるさいほど記したが、傍証として他書もかなり引用し、更に従来の多様な解釈もなるべく紹介するように努めた。それゆえ注解の量は多い。訳はとにかく意味が通るように、注解は学芸文庫にふさわしい学術性も持たせつつ、わかりやすく書くことに心掛けた。
 ところで一般読者が読み込みの結果として自分なりの解釈を紡ぎ出せるのも、『論語』ならではである。『論語』の魅力は万人が読解に参加できるところにある。文庫本という手軽な形を取ったことで、『論語』が読者の身近な存在になり、注解がご自分の解釈を形成するための素材として活用されるのなら、それも私の喜びである。

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