ちくま新書

ブッダの可能性の中心
清水俊史『ブッダという男』書評

これまでのブッダ理解を批判的に検証し、初期仏典の丁寧な読解からその先駆性を導き出す清水俊史さんの快著『ブッダという男――初期仏典を読みとく』(ちくま新書)。評論家の宮崎哲弥さんによる書評を、PR誌『ちくま』1月号より転載します。

 初期仏教のある「律」のなかに、ブッダの過去世の記憶として、妻と謀って義理の弟を殺害したことが語られる場面がみえる。
 遠い前世において山村に住む家長の長男としてあったブッダは、親の遺産の半分が腹違いの兄弟の手にわたると知った妻に凶行を唆される。「わが夫よ、それならかれを殺してください」。前生のブッダは、当初こそ彼女に抗うものの、結局説き伏せられてしまう。「かの女はかれに繰り返し言い、欲望に従う者がなしえない悪業は何もないので、かれは同意した」。そして異母弟を野に誘い出し、洞窟に立ち寄って、そこで石で撲殺してしまったという。
「比丘らよ、どう思うか。その折に家長の息子で、その弟を荒野で殺した者は余にほかならない」(『根本説一切有部律薬事』八尾史[訳注]、連合出版)
 この「律」の記述は、転生を前提としたブッダの前生譚である。もし輪廻や業という現象を認めない立場を採るならば、この挿話に込められた教えは排除されてしまうだろう。
 また、もしブッダを他の宗教の開祖のごとくに無謬の聖人と崇め奉ることに主眼をおくならば、前世の出来事とはいえ、このように生々しい告白は削除されるべし、ということになろう。
 然るに仏教者たちはかかる殺人の記憶を長く語り継いできた。それが仏の教理として重大な意味を持っていたからである。
「余は弟を財のために荒野で打って殺したというその業が熟したことによって、何年も、何百年も、何千年も、何十万年ももろもろの地獄で煮られたのである」(同上)
 欲望(煩悩)に衝き動かされ、人を殺めれば、来世で地獄に堕ち、生きながらにして煮られる。後代成道しブッダになる者すら、この業の報いを免れることはできない。挿話は業の法則を何より雄弁に伝える。
 そして、私が一層重要に思えるのは、ブッダという男は殺人者の心を知っているという事実が明かされている点だ。単に他人事として知っているのではなく、我が身をもって知っている。こんな邪で、卑小で、脆弱な心身すら我がものとして経験しているということ。そして、そのようにいささかも正当化できず、同情できない極悪人であっても、やがて遠い未来には仏になり得るということを、ブッダは自らの来歴によって証している。
 本書、『ブッダという男』を読みながら、ずっとこの「律」の一節を思い返していた。
 著者、清水俊史は気鋭の仏教研究者である。幾多の学術論文をものし、専門書を上梓した彼が、はじめて一般に問う新書だ。外題も挑戦的だが、内容も挑戦的で、現代の仏教界のブッダに関する通説、有力説を次々になぎ倒していく。例えば「ブッダは業と輪廻という現象を否定した」とか、「絶対平和主義者だった」とか、「階級差別を認めず、男女平等を積極的に主張した」だとか。
 だが本書の軸は、初期経典を読み解く新たな方法論を示していることだろう。「史実」でもなく「神話」でもなく、「宗教的事実」としてのブッダの像の再構成、経典の再読解が詳らかにされている。
 マルクス・ガブリエルは一角獣のような物理的対象性を持たないものも実在すると述べている。「意味の場」においてそれは存在するのだ。仏教でいえば、冒頭に掲げたブッダの過去世の体験談をみればわかるように、「我」や輪廻といった「宗教的事実」は現象世界において実在する。仏教における救いとは、この苦に満ちた現象世界の外に出ること、つまり解脱なのである。
 これを認めた上で、仏教の思想的可能性の中心を読み出そうとする著者の試みはとても刺戟的だ。

関連書籍