ちくま文庫

妖怪大人の画期的な酒旅

ちくま文庫『多摩川飲み下り』解説

10月刊行のちくま文庫より、大竹聡さん『多摩川飲み下り』に収録の、高野秀行さんによる解説「妖怪大人の画期的な酒旅」を公開します。「妖怪大人」とは一体?

 大竹さんと言えば、出版業界では無類の酒飲みとして知られている。いつも飲んでいる、いくらでも飲む、いつまでも飲んでいる、とまるで酒に憑かれた妖怪のように語られるが、私の中にある大竹さんのイメージはそれとは若干異なる。

 一言で言えば、「妖怪だけど大人」。

 まず、私は大竹さんがへべれけになっている姿を見たことがない。これは単に機会がなかっただけかもしれない。飲み会は数回同席したことがあるが、たいてい誰か(何か)の出版記念か受賞記念のお祝いの席で、人がたくさんおり、次から次へと飲み相手も変わっていくから、大竹さんとも挨拶がてら「や、どうも」と軽く杯を交わす程度である。にしても、そういう席上でもガンガン飲んで酔っ払い、ぐだぐだになっている人は少なからずいるが、大竹さんは隅っこで静かな笑みをたたえて淡々と飲んでいる。人の幸福を肴にうまい酒を飲んでいるような風情が漂う(もしかしたら二次会、三次会で同席したら妖怪に化けるのかもしれないが……)。

 たった一度だけ、ちゃんと大竹さんと飲み会をしたことがある。大竹さんが主宰する伝説の雑誌『酒とつまみ』で私がインタビューを受けたのだ。ふつう、インタビューといえば、喫茶店や出版社の会議室か何かだが、なんせ『酒とつまみ』だから、当然居酒屋で行われた。編集者からライター、カメラマンまで全員が飲みまくって酔っ払っていたが、このとき大竹さんはなんと酒を一滴も飲まなかった‼

 なんでも、「γ-GTPの数値が1000を超えちゃってね、医者から『酒をやめないとすぐ死ぬ』って言われて、ここんところ酒を断ってるんですよ」とのことだった。

 γ-GTPは50を超えると「要注意」になる。それが1000を超えているなど人間とは思われない。やはり妖怪なのか……と驚いたものだが、もっと驚きだったのは、大竹さんがウーロン茶だか水だかを飲みながら酔っ払いたちと平然と談笑していたことだった。

 飲まなくても全然平気なのだ。しかもまるでほろ酔いのように見える。

 この辺から私の中で大竹さんに対し、「妖怪なんだけど大人」というイメージが定着した。底なしの酒飲みだが、酒に溺れているわけではない。自分が飲めなくても酔っ払いと付き合える余裕も持ち合わせている。

 飲酒妖怪の大竹さんは一カ月かそこらの禁酒でさっさとγ-GTPの数値を下げると、前と変わらず飲み始めたようで、次々と酒を飲み歩く本を書いている。

 さて、本書であるが、大竹さんの「大人度」がさらにアップしたと感じ入った。多摩川を源流近い奥多摩からずーっと歩きながら、出くわした飲み屋にてきとうに入って一杯やり、また再び歩き出すという画期的な酒旅である。

 酒には不思議な作用がある。以下の酒はふつうの酒より五割増し(?)で美味いことが知られている。

・昼間から飲む酒

・屋外で飲む酒

・体を使ったあとの酒

・一仕事終えたあとの酒

 理由はわからないが、確実にそうである。そして、この「飲み下り」は日中のかなり長い歩き旅とセットになっているため、上の全ての条件を満たしている。それがまず凄い。これ以上酒を美味く飲む方法はないといってもいいくらいだ。

 大竹さんは別にこれを期間を決めてやるわけではない。大人だからガツガツしないのだ。気が向いたときにふらっと行って歩いて飲み、また時間ができたときに、前回行ったところからスタートする。これを何年もかけてゆっくり行う。季節はうつろい、暑いときはビール、寒いときは熱燗。

 川沿いに下るというのも、いい。私も何度か川旅をしたことがある。地元の船に乗ったり、自分でカヌーを漕いだりしたのだが、川は水の流れを見ているだけで心癒やされ、自由な心持ちになる。登山のようなストイックさや上昇志向とは無縁。「ま、いいか」という気分を醸造する。

 川旅の唯一最大の欠点は、上流は自然も豊か、人も素朴で面白いが、中下流域は変化に乏しく、住宅地が増えて退屈になることだ。最後の河口付近は漁師の姿が増え、また活気に満ちてくるが、途中の中だるみがけっこう辛い。

 しかし、どうだろう、酒飲み旅にすると、この欠点が見事に解消されているじゃないか。上流には江戸時代から続く酒蔵が何軒もあり(念のため言っておくと東京都なんですよ)、美味い水で仕込んだ日本酒を味わえる。中流は私の出身地でもあるかつての「南多摩」で、一見単なる東京郊外だが、探せば少なからず地方都市的な情緒あふれる飲み屋が見つかる。そして下流は昭和の面影を宿した下町風の老舗が健在である。

 中だるみがないのだ。

 大人である大竹さんは店を特に選ばない。店構えがいい感じだと思えば、すっと入る。蕎麦屋、酒蔵わきの角打ち、中華料理屋、うなぎ屋……。

 川原に腰を下ろして飲むこともある。リュックに小さな保冷袋を入れ、中には缶ビールと凍らせたカルピスウォーター。「こうしておくと、ビールはずっと冷えたまま。

気ままな場所でリュックを下ろし、ひとりピクニック酒を楽しむことができる」。肴は道端の肉屋で買い求めた唐揚げとコロッケ、そしてコンビニのサンドウィッチと融通無碍。

 いやあ、たまりませんね。本書を読んで冷静でいられる酒飲みがいるだろうか。絶対に真似したくなる。私はたまらず自分の家の近くを流れる川を地図で調べてしまった。うおー、この××川も飲み下ったら楽しそうだ!

 だが、しかし。前世でどんな悪行を働いたのか、たまたま来週からはパキスタンを一カ月ほど旅行する予定で、飲み下りどころか、その間基本的に酒は飲めないのだ。どうしてそんな無慈悲な運命にあるのかとひとしきり嘆いたが、いやいや、大竹さんを見習って大人にならねば、と思い直す。飲めるときは飲み、飲めないときは諦めるのだ。

 一つ心配なのは酒が原則禁止であるパキスタンも、ときに合法あるいは非合法に飲めるところがあること。大人になれない私は、そういう場所をつい探してしまうかもしれない。インダス川飲み下りとかを敢行してしまう恐れもあり、十分な注意が必要である。

 

2016年10月20日更新

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高野 秀行(たかの ひでゆき)

高野 秀行

1966年、東京都生まれ。早稲田大学第一文学部卒業。同大探検部在籍時に執筆した『幻獣ムベンベを追え』(集英社文庫)でデビュー。『ワセダ三畳青春記』(集英社文庫)で酒飲み書店員大賞受賞、『謎の独立国家ソマリランド』(本の雑誌社)で講談社ノンフィクション賞、梅棹忠夫・山と探検文学賞受賞。近著に『地図のない場所で眠りたい』(角幡唯介との共著、講談社文庫)がある。

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