ちくま学芸文庫

理解できないあなたの隣にいるために
奥村隆著『他者といる技法』解説

わたしたちが他者といる際に用いる様々な技法。そのすばらしさと苦しみの両面を描く『他者といる技法』(奥村隆著)がちくま学芸文庫として復刊・文庫化されました。言語哲学がご専門の三木那由他さんによる、本書の解説を全文公開いたします。

 

 この社会において、私たちはすでに他者とともにあり、それゆえに他者といるためのさまざまな「技法」を用いて暮らしている。ではその技法とはどういったものなのか? 本書『他者といる技法』は、私たちが他者といるために用いるさまざまな技法を、ひとつの大きな枠組みのもとで体系的に論じている。
 本書は全体の導入となる序章に加えて、六つの章から成っている。各章はそれぞれ独立に読むこともできるが、それとともにひとつのアイデアがすべての章を貫いている。それはすなわち「〈承認と葛藤の体系としての社会〉」(54頁)である。この社会観がもっとも詳しく説明されている第一章をもとに、ここで簡単に整理してみよう。
 奥村はR・D・レインなどを参照しながら、ひとはその存在証明を他者からの承認を通して得ている、という見方を提示する。子どもがいて初めて親となれるように、私たちの存在のありかたは他者との関係のもとで初めて規定される。それゆえ私たちは自らの存在証明のために他者を必要としており、それゆえに社会を形成している。
 だがその一方で、奥村は他者からの承認を求めるのとは相反する力を社会に見出す。他者からの承認に自らの存在証明を求めるとき、他者は「主体」となり、私はその主体にとっての客体となり得る。他者からの承認を必要とするまさにそのときに、私たちはいわばその他者に主体性を譲渡せざるを得ないのである。だが、主体的で自由な他者は、それゆえに私への承認を拒絶しかねない存在となる。
 こうして、私たちは一種の板挟み状態に置かれる。私たちは他者の承認によってしか存在証明を得られない。しかしそのために他者の承認を求めるということは、他者に主体性を譲渡し、存在証明を危うくすることでもあり得る。承認してほしいが承認の力を与え過ぎたくはない。この一見すると相矛盾するようなふたつの力の押し引きを、奥村はこの社会の基本的な形態だと見ている。
 では、奥村の言う「他者といる技法」とは何か? それは、この〈承認と葛藤の体系としての社会〉において、存在証明を危うくしすぎないようにしつつ他者からの承認をうまく得るために私たちが利用しているノウハウである。私たちは承認と葛藤というふたつの力が押し合いへし合いしている現実において、自分たちの存在証明が破綻してしまわないよう、日々さまざまな技法を利用しているのだ。
 本書の各章は、この基本的な枠組みを前提に、それぞれ異なる技法を論じるものとなっている。第一章では、「思いやり」と「かげぐち」という対照的な実践が、相互承認を保証するために承認のハードルを下げるための技法としての思いやりと、ハードルが下がることで存在証明の価値が希薄化したことへの対処の技法としてのかげぐちとして、いわばひとつの現象の表と裏の関係にあると論じられる。第二章では、家族という小さな単位の共同体における相互の承認と葛藤のダイナミクスをもとに、子の存在証明を危うくするダブル・バインドが親の存在証明の安定化の技法として生じる仕組みを論じている。
「外国人」と呼ばれる人々へのメディアの目線をこの観点のもとでの異なる技法の現われとして論じる第三章は、本書のなかでもとりわけ重要だろう。私が異質な他者と出会うとき、私は自分がその他者にとって主体となるのか客体になるのかわからない「宙づりの状況」に置かれる(132-3頁)。この宙づりは私の存在証明を危うくさせる「コワイ」経験であるがゆえに、私はその他者の主体性をコワイものとして経験する。このコワサは他者が私に対して主体となっているがゆえであり、コワイ他者に対処するためには、相互承認の体系からこの他者を排除し、その主体性を機能不全に陥らせなければならない。こうして異質な他者の排除が生じる。
 だが問題はそれだけではない。排除が起こらない場合でも、私たちは異質な他者の主体性を停止させ、自らの存在証明を安定させるべくいくつかの技法を用いる。例えば、他者を「キタナイ」存在と見なし、ひたすらネガティブに評価・記述される客体へと落とし込むことで、自らの主体としての位置づけを安定させることもある。また他方で、異質な他者を「カワイソウ」などと同情的に捉える一見すると当たり障りのなさそうな態度も、ポジティブな評価・記述を利用しているとはいえ、その他者を客体へと押し込み、主体としての力を失わせる技法となっている。こうして奥村は、「外国人」のように異質な他者と見なされた者たちへの、「コワイ」、「キタナイ」、「カワイソウ」という異なる表象の仕方が、同じメカニズムのもとで生じる三種の技法であると示すのである。
 第四章は中間階級特有の行動様式を同じ枠組みで論じている。上品なレストランで自分がその場に適したマナーを身につけていることにまったく疑いを抱かず、それゆえに他者の視線によって存在証明が揺らぐ可能性の低い支配階級、その場に適したマナーに従う必要性を感じず、それゆえに逆説的に存在証明が揺らぎにくい庶民階級。それらとは異なり、中間階級の人々はその場に適したマナーを身につけていないという自覚を持ちながらも、また周囲の他者の視線のもとで「リスペクタブル」な存在としての承認を得たいと望み、そのギャップのなかで達成し得ない努力をせざるを得ない。この章では、そのために使われる技法として感情の管理が取り上げられている。
 第五章のテーマは自己啓発セミナーである。私たちの社会においては、それぞれが相手から見てコントロール不可能な主体として現れるのを抑制し、コントロール可能な他者として互いに出会うことが求められる。だが私たちは、抑えられない激しい情動を溢れさせ、そのコントロール不可能性のもとで(多くの場合は親密な)他者と互いを承認し、存在を確かめる技法も身につけているらしい。奥村は、そうした本来なら恋人や親友などとの限られた空間でのみ用いられる技法を、グラウンドルールの設定などによっていわば疑似的にコントロール可能なコントロール不可能性を現出させることで使用可能にした空間として、自己啓発セミナーを捉える。メディアが自己啓発セミナーに向ける非難の声は、そしてそのうちに見出される顕著なジェンダー差は、そうした空間や技法への人々の距離感を反映する。
 以上の五章は、すべて私たちが現にどのように他者といるための技法を用いているかを記述する内容となっている。すなわちそれは、私たちが身につけるべき望ましい技法ではなく、私たちが現に身につけ、意識しているか否かを問わず日常的に用いている技法なのである。だが、こうした記述的な研究は、それとともにいまだ実現されざる、あるべき技法への指針を、私たちに示してもくれる。第六章では、あるべき技法として、理解し得ない他者とともにいるための技法が構想される。
 私たちの多くは、他者を理解したいと望み、他者から理解されたいと望む。だが、他者への完全な理解、他者からの完全な理解なるものは原理的に不可能だ。それゆえ、私たちは他者の理解を少しでも増やそうと、「類型」を用いるが、それは同時に他者をその類型にはめ込まれた客体とすることでもある。そしていずれにせよ、類型もまた他者への完全な理解を与えることはなく、類型からはみ出す理解不可能な領域をまるで存在しないかのように扱ってその他者とともにいるか、あるいは理解を諦めてその他者から離れるかするしかなくなるだろう。理解が足りない状態は、その主体性がポジティブに現れたままの他者とともにあることを困難にする。他者は客体になってそこに居続けるか、望ましくない主体として排除されるかになってしまう。だが理解が完璧であれば、私たちは主体としての他者とともにいられるのだろうか? そうではない、と奥村は論じる。完全な理解は、今度は私の自由を不可能にし、私の存在を成り立ちがたくするのである。奥村は、理解できない他者と一緒にいる技法、「理解」とは異なるかたちで他者とともにいるための技法が必要なのだと語る。

 思うに私たちは、この社会において、実はそんなに互いの内面までわからないまま、それでもコミュニケーションを通じてどうにかともに「やっていく」ようにしている。『話し手の意味の心理性と公共性』(勁草書房、2019年)という本で論じたことだが、コミュニケーションは互いの心理の開陳や心のなかのメッセージの交換ではなく、これから先どのように行動をしていくか、どのように行動していくべきだと互いに見なすのかの擦り合わせの契機であることをその本質としている、と私は考えている。私たちはコミュニケーションを通じて今後の行動のための相互的な規範をかたちづくり、その規範に従う者としての存在証明を得るとともに、その相互的な規範の相互性ゆえに、相手に自らの主体性を委譲してもいる。社会が承認と葛藤の体系であるとすれば、コミュニケーションはそうした承認と葛藤が具体的に経験される現場なのではないだろうか。
 だとすれば、異質な他者の異質さ、圧倒的な他者性はコミュニケーションの破綻の瞬間に出会われるのかもしれない。例えば、ずっとともに過ごしてきた幼馴染が「私は同性愛者だ」と告げる。将来どんな男性と結婚したいか、どの男の子と交際したいかといったことを何度も何度も話してきた目の前の女の子が、突如として異質な存在になる。それは私たちが作り続けてきた行動指針から逸脱した発言であり、私の存在証明のよりどころのひとつとなっていたその子との相互的な規範に、その子はいま主体的に抵抗している。その子は私には理解できない会話へと、理解できない行動へと踏み出そうとしている。こうした場面で、これまで安定していたコミュニケーションは破綻し、幼馴染は異質な他者として現れ、私は自分が安住していた規範を失い、もはや自由な言動ができないと感じ、これからの行動指針をどうしたらいいのか、それをどちらがどう決めたらいいのかわからず、気まずく沈黙したり、余計なこと(例えば「そうなんだ。恋愛に性別は関係ないものね」のような偏った発言)をしたりするだろう。
 私は、この瞬間にこそ、理解できない他者とやっていくための希望が賭けられているように思える。先ほどの例での異性愛者である「私」にとって、その瞬間は自らのセクシュアリティの「当たり前さ」を揺るがされ、存在証明を危うくするものと経験されるかもしれない。その存在証明を安定させるために、幼馴染を客体に落とし込み、同性愛者へのステレオタイプで彩りたくなるかもしれない。幼馴染を「気持ち悪い」(「キタナイ」)主体として排除し、交流を断とうとするかもしれない。でも、そうではなく、もしその異質な他者として現れた幼馴染と、それでもともにいたいと願ったら?
 奥村が論じるように、理解は常に足りない。「私」は、初めは幼馴染を理解しようと本を読んだり映画を見たりするかもしれない。しかしそれで幼馴染そのひとには達することはない。「私」が幼馴染の前で同性愛への「理解」や「寛容さ」を示そうとするたびに、幼馴染は気まずそうに黙り込む。会話に沈黙が占める比率が増え、いたたまれなくなる。それでもともにいたかったら?
「私」はどこかで自らを幼馴染に委ね、わからないままに幼馴染の「やっていきかた」と調和する「やっていきかた」を探っていくかもしれない。異性愛者である「私」には本当には理解し得ない異質な他者かもしれない幼馴染と、理解し得ないまま、それでも誰よりもともにやっていける者として。私は決意を持って主体性をこれまで以上に委譲することで、新たな存在となった私として、幼馴染の隣にいられるようになるかもしれないのだ。
 その技法はきっと、とてもゆっくりと、何度も失敗を重ね、互いに繰り返し我慢をしたり、衝突をしたりしながら獲得されていく。だがそれでも、そこにこそ希望があるのだと思う。

私たちは「わかりあおう」とするがゆえに、ときどき少し急ぎすぎてしまう。しかし、「わからない」時間をできるだけ引き延ばして、その居心地の悪さのなかに少しでも長くいられるようにしよう。(296頁)

 コミュニケーションが気まずく中断されるとき、理解していたはずの、私と同じような存在だったはずの相手が異質な他者として現れ、これまでのやりかたが宙づりにされるとき、その居心地の悪さこそが、その相手と本当にともにいられるようになるための大事な出発点なのだ。