ちくま学芸文庫

『近現代仏教の歴史』解説

5月刊行のちくま学芸文庫『近現代仏教の歴史』(吉田久一著)より,現代日本を代表する仏教学者・末木文美士氏に寄せていただきました「文庫解説」を公開します。 末木氏自身も近代仏教に関する著作もあるので、最良の導き手として、本書の意義・意味を的確に読者に提示してくれます。

 近年、近代仏教に関する研究が急速に盛んになり、若い研究者によって大きな成果が次々と産み出され、活気を呈している。大谷栄一・吉永進一・近藤俊太郎編『近代仏教スタディーズ』(法藏館、2016)は、そうした最近の成果を集約した入門書であるが、それを読んでいくと、近代仏教に対してきわめて多様な視点から光が当てられ、その問題の広がりに興奮を覚えるほどである。同書の副題に「仏教からみたもうひとつの近代」とあり、その帯の惹句に「日本近代化の背景には、常に仏教の存在があった」とあるように、近年の研究は、仏教史がそれだけの狭い枠に閉じこもったものではなく、日本の近代を考える上で不可欠の要因となっていることを明らかにしている。
 私は、2004年に『明治思想家論』と『近代日本と仏教』(ともにトランスビュー)を出したが、その頃はまだ、近代仏教など本当に一部の好事家の研究することと考えられ、蔑視されていた。仏教史という面から見ると近代は付け足しに過ぎないと考えられ、他方、近代史の専門家は仏教史など別に知らなくても問題ないと考えていた。私自身、もともとは中世仏教を専門としていたが、必要があって近代仏教に手を付けてみると、その重要性にも関わらず、あまりに無視されていることに憤慨し、そんな世間の常識に挑戦するつもりで、蛮勇を奮ってこの両書を著わしたのだった。それからわずか十数年で学界の常識がこれほど大きく転換して、近代仏教が花形的な研究分野としてスポットライトを浴びるようになるとは、とても信じられないことであり、感慨無量である。
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 近代仏教が片隅に追いやられ、日陰の研究領域とされていた時代に、いち早くその重要性を見抜き、その研究に着手していた少数の先駆者がいた。吉田久一(1915―2005)、柏原祐泉(1916―2002)、池田英俊(1925―2004)などの名前が挙げられる。池田の『明治の仏教』(評論社、1976)、柏原の『日本仏教史・近代』(吉川弘文館、1990)なども優れた概説書である。しかし、何といっても息の長い活動と多数の著作によって、もっとも多くの成果を上げ、大きな影響を残したのは吉田であった。
 吉田の主要な研究領域は二つあった。一つは日本社会福祉事業史であり、もう一つが日本近代仏教史であった。そのいずれもが未開拓の領域であり、吉田によって今日の研究の基礎が築かれたと言ってよい。もちろん、二つの領域は無関係でない。2016年11月に日本仏教社会福祉学会・社会事業史学会・日本近代仏教史研究会共催でシンポジウム「吉田久一の歴史研究を問う――社会福祉史と近代仏教史の立場から」(淑徳大学千葉キャンパス)が開かれたように、両分野が切り結ぶところに、独自の「吉田史学」が築かれたのである。日本の社会福祉に仏教が大きく関係していることは言うまでもない。
 とは言え、私は社会福祉史の分野にはほとんど知るところがなく、その分野の吉田の業績については語る資格がない。それ故、近代仏教史に限って、吉田の業績を少し見ておこう。この方面の吉田の最初の大きな著作は『日本近代仏教史研究』(吉川弘文館、1959)であり、近代仏教史という分野を確立した記念碑的著作である。本書はその対象を明治時代に絞っており、『近現代の仏教の歴史』では2―4章に相当する。明治初年から大逆事件まで、明治期の仏教の主要な問題をほぼ網羅し、しかもそれをしっかりと文献的な実証によって押えている点で、画期的な成果であった。大教院分離運動、教育と宗教の衝突論争、そして精神主義や新仏教運動、さらには大逆事件と仏教との関わりまで、社会史・政治史的な面と絡めながらも、思想史的な面を重視して、主要な問題を検討している。私が近代仏教に関心を持って勉強を始めた時も、本書は最良の導きの書であった。その基本的な構図は、今日でも有効と考えられる。
 その後の研究は『日本近代仏教社会史研究』(吉川弘文館、1964)に纏められた。本書は題名通り仏教の社会活動的な面に光が当てられ、社会福祉史の問題意識とつながっている。また、概説的・通史的なものとして『日本の近代社会と仏教』(『日本人の行動と思想』、評論社、1970)が書かれている。さらに『清沢満之』(人物叢書、吉川弘文館、1968)は、近代仏教のキーパーソンの一人である清沢の信頼できる評伝であり、その後の清沢研究の基礎となる成果である。ちなみに、『吉田久一著作集』全6巻(川島書店、1989―93)は、著者の主要な著作を収めているが、近代仏教史関係は『日本近代仏教史研究』と『日本近代仏教社会史研究』(改訂増補版)を収めている。
 このような単著としての研究書とともに、忘れてならないのは、近代仏教に関する優れたアンソロジーを編集していることである。即ち、『現代日本思想大系』7「仏教」(筑摩書房、1965)、『明治文学全集』87「明治宗教文学集」1(同、1969)、同46「新島襄・植村正久・清沢満之・綱島梁川集」(同、1977)などであり、近代仏教へのよい導入となっている。
 1970年代以後は社会福祉史の方面の著作が相次ぎ、近代仏教史関係の著作は少なくなっている。しかし、晩年に至って、『現代仏教思想入門』(筑摩書房、1996)並びに本書『近現代仏教の歴史』(筑摩書房、1998)を出版している。ともに自らの研究を集大成するとともに、後進へ向けての入門となる好著である。『現代仏教思想入門』は、『現代日本思想大系』7をもとにして、編集し直したアンソロジーであるが、『近現代仏教の歴史』とセットになるもので、後者に対する原典資料入門という性質を持っている。
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 そこで、本書『近現代仏教の歴史』について、もう少し立ち入ることにしたい。と言っても、その内容は明治以前の近世から始まり、戦後の20世紀末までを含むきわめて適切な通史的な概説であり、特に難解なところはないから、改めてそれに対して解説を加える必要はないであろう。もちろん、本書の時代から今日まで、この分野の研究の進展は著しいので、それらについては、上記の『近代仏教スタディーズ』や、通史としては末木文美士他編『新アジア仏教史14 日本Ⅳ 近代国家と仏教』(佼成出版社、2011)などがあるので、参照していただきたい。
 そこで、ここではいささか方法論的な問題を考えてみたい。本書の「まえがき」と序章は、著者の一生を貫く研究の方法や問題意識が簡潔に述べられているので、その点に注目したい。著者は「まえがき」で、「私は総合史にも目配りしながら、近現代社会の基盤としての資本主義社会と、本来仏教の中核的内容である信仰・思想に焦点を置くことにしたい」と述べている。資本主義社会と仏教の信仰・思想というセットは、いささか唐突で、「とまどいを感ずる読者があるかもしれない」が、実はそこに著者の方法と問題意識がある。
 著者自ら述べるように、著者が研究を始めた頃は、「マルクス主義を中心とする社会史的研究の全盛時代」であり、著者もその影響をたっぷりと受けている。しかし、「宗教信仰の伴わない仏教史研究には幾多の疑問を感じ」、そこに、資本主義と仏教の信仰・思想をセットにした問題意識が生まれることになった。それは単なる抽象的な理論ではなく、青年期を戦争の中に過ごし、「召集を受けて沖縄戦争の前線」に出動し、「無数の沖縄びとの死や多くの仲間たちの死を経験している」という重い原体験がある。沖縄での戦争体験は、自費出版した『八重山戦日記』(1953、著作集7所収)に生々しく描かれている。宗教と社会という問題意識はそこに発する。そこから一方で近代仏教史研究に向かい、他方で社会福祉史へと向かったのである。著者の論述は実証的で客観的な装いを取りながらも、それは決して「研究のための研究」ではなかった。
 戦後の歴史家や社会科学者は、多くマルクス主義の影響を受けて社会的な関心をもちながらも、経済だけですべてを解決する唯物史観的な見方は、必ずしもそのまま受容されたわけではなかった。近代資本主義社会の形成という問題に目を向けながらも、宗教の問題を取り上げようとするとき、多く拠りどころとされたのはマックス・ウェーバーであった。ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は、近代資本主義の形成にカルヴァン派の世俗内禁欲の倫理が強い影響を与えたことを示したが、日本では大塚久雄らによって導入され、宣揚された。ウェーバーに拠った日本の研究者たちの主張によれば、日本の資本主義は近代的な合理主義のエートスを欠き、それ故本当の近代化を達成できず、非合理な戦争へと突入することになった。それ故、プロテスタンティズムに相当する倫理的な宗教を確立することが、真の近代的な資本主義確立のためにも必要だというのである。
 こうしたウェーバー主義の日本への適用は、近代宗教の研究よりも、近世宗教の研究にいち早く見られ、著者が指摘するように、内藤莞爾による近江商人に対する浄土真宗の影響や、ロバート・ベラーによる近世宗教の研究などに顕著である。著者もこのようなウェーバー理論の影響を大きく受けていて、序章には「ウェーバー宗教社会学と仏教」という一節が設けられている。著者は「日本が近代初頭に宗教改革を欠いたことは、致命的欠陥であった」と見ている。そのことによって、「精神的内面的近代化」が十分に発展しなかったというのである。
 ただ近世と異なり、明治以後は欧米の圧倒的な影響下に、一気に近代化した上で帝国主義化していくので、そのままではウェーバー理論が適用しにくい。それ故、著者は欧米的な近代化をそのまま絶対視するのではなく、むしろ日本に「後進国近代化」の典型を見ようとする。日本の資本主義では、「倫理よりも国策」であり、そのために「精神的内面的近代化」へ向かう宗教が「反近代」を掲げるような屈折が生ずることになったという。著者が考えている日本における「精神的内面的近代化」の宗教は、内村鑑三や清沢満之に代表される。著者の近代仏教研究において、清沢の占める位置の大きさは、ここから理解される。
 著者は本書で、自らの立場を「批判的近代化」と名付ける。それは、「日本近代の持つ未完・退廃を反省しながら、批判的立場で近代を捉え、なお多くのことを近代から学習しつつ、新しい歴史の創造に参加すべきである」というものである。近代が行き詰った今日、だからといって一気にポスト近代に跳ぶのではなく、批判的に捉えながらも、近代を継承していこうというのである。
 こうした著者の近代の捉え方は、全体として社会主義などを含めた社会運動的な面を重視しながらも、その中に思想的な問題を織り込んでいくという本書の論述に巧みに生かされている。資本主義社会と信仰・思想という二つの軸がうまく噛み合って論じられていくのである。著者はそのことを図式的機械的に当てはめるわけではなく、そのような視点に立ちながら、抑制のきいたバランスのよい論述をして、近代仏教史の重要な問題をほぼ的確に網羅している。しばしば問題となる戦争期の国家主義と仏教との結びつきについても、一方的な批判や否定は避けて、できるだけ公正な論述を心掛けている。そのことがかえって、仏教が「日本近代の持つ未完・退廃」の中で、さまざまな屈曲を経なければならなかった苦難をおのずから浮かび上がらせている。
 このように、研究者としてのバランスのよい公正さが、その底を流れる毅然とした倫理観に裏づけられていることが、著者の研究の信頼性を高めている。本書が、あるいは本書に最終的に結実する著者の一生をかけた研究が、時代的な制約の中に埋没することなく、長く一つの標準となり続ける所以である。
 このような著者の基本的な態度に敬意を表しながら、最後に、ウェーバー的な近代化論を継承するが故に生じた問題点を一つだけ指摘しておきたい。それは、近代化という方向性を合理化として捉え、「呪術からの解放」を大きな指標とするために、「宗教改革」とプロテスタンティズムに光が当てられ、それに対するカトリック的、あるいは宗教の呪術的な側面が見えにくくなるということである。具体的に仏教の場合で言えば、密教的な要素が不当なまでに否定対象となり、その側面への配慮が行き届かなくなってしまうことである。
 このことは決して著者だけの欠点ではなく、近代の研究の中で長い間ほとんど常識化してきたことである。私自身、仏教史研究を始めた1970、80年代は、まだウェーバー的な宗教理解が大きな力を持っていて、そこから脱却するためにかなりの労力を要することとなった。しかし、近年の研究は、近代仏教が決して一方向的に合理的宗教へ向かうわけではないことを示している。例えば、鈴木大拙や宮沢賢治など、近代を代表する思想家は単に合理的な仏教観に終始したわけではなく、神智学の大きな影響を受けて、合理化できない神秘主義的な要素を強く持っている。また、政治の方面にも深く関係する日蓮主義も、単純に合理的とは言えないことは明らかである。こうしたことを日本の近代化が後進的であるが故の屈折という点にだけ求めるのは無理があり、じつは西欧の近代化の中にもこのような非合理的な方向性が顕著に見られるのである。オカルト的な神智学の形成はその典型である。この問題にここでこれ以上立ち入ることは控えるが、本書でまず近代仏教の概観を理解したならば、次の課題としてこのような問題も考える必要があるということを指摘して、解説を結ぶことにしたい。
 

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