ちくまプリマー新書

みんなロマンチックすぎるんじゃね?

3月刊行のちくまプリマー新書『人はなぜ物語を求めるのか』(千野帽子著)について、二村ヒトシさんに解説をいただきました。私たちはついつい身の回りで起こる様々なことを都合よく決めつけて生きているようです。それはどうしてなのか……?

 千野帽子には『俳句いきなり入門』(NHK出版新書)という著書もあり、その本でも、この『人はなぜ物語を求めるのか』でも「みんな自分が好きすぎ。他人は、あなたの自意識にはそんなに興味ない」と言っている。目の前の他者と対話せずに、被害者意識(つまりナルシシズム)や変な義務感にとらわれていると幸せになれないと言い続けている。
 俺も同じことを、メンヘラや非モテの人々にも、がんばりすぎている普通の女性にも、すぐキレる人にも言いたいし、ばかな右翼にもばかな左翼にも、いつもツイッターで論争をしている人たちにも言いたい。あんたらみんな俳人だったら千野帽子言うところの「ポエム俳句」の詠み手だ。ダサい。なぜダサいかというと、みんな自分で自分を苦しめているからだ。
 根っこにあるのは感情だ。もちろん感情は大事だ。瞬間の感情を、ないがしろにしたり抑圧したりするのはまずい。しかし「あいつらが私を傷つけている」とか、逆に「私はダメな人間だ」(罪悪感もナルシシズムなのだ)といった感情が長期化すると、それは容易に「あいつらは悪だ」とか「私(たち)は正しい」とか「私は必ず悪い男に恋をしてしまう女だ」といったロマンチックすぎる物語に変換されてしまう。人間の脳は、つい原因や結果を求めてしまうからだ。
 あらゆる物語論の本に(この本にも)書かれているように、たしかに人間が生きていくためには物語が必要だ。だが自分で作った物語に支配されて苦しむことはない。ロマンチックだということは、がんこだということだ。それはぜんぜん自由ではない。生きていくための物語なら、なるべく「がんこじゃない物語」を選んだほうが生きていきやすい。
 良質な物語では、その始まりと終わりでは主人公の「世界のとらえかた」が変化するものだ。自意識や自我や過去の物語にしがみついている人、その人が「そういうふうにしか生きられない」という物語は、遠い他人の人生としてなら笑ったり感心したりできるが、あなたの物語としては「面白くない」し、しかも本人や周囲を幸せにしないし、人生を損なうだろう。
 だからこの本では「しがみついている崖っぷち(そこはじつは大した高さの崖ではないのだ)から手を離す」ことの効能を論ずる。それは怖いことだが、その怖いことを可能にするためにも、物語はある。人間は「勝つため」にではなく「自分が変わるため」に、戦争をしたり恋愛をしたり他者と対話をしたりしているのだ。変わることは「負ける」ことではない。
 つまり本書は「幸せに生きられるように変わるための技術について論じた本」なのだが、世の中に沢山いるであろう「それを読むべき人」に、うまく届くだろうか。正直、やや心配でもある。幸せになるのがへたくそな、がんこな人たちは果たしてこの本を手に取るだろうか。物語論とか文学論に興味がある人ばかりが、感情ではなく論理ばかりを働かせて読んでしまうのではないだろうか。そうなっては、もったいない。この本はむしろ感情的に読むべき本だ。泣きながら怒りながら読むべき本かもしれない。そののちに自分の感情や「自分にとっての物語の扱いかた」について考えることができるようになる本だ。物語論というものは、人生に、そういうふうに使える(著者は違うが三宅隆太著の『スクリプトドクターの脚本教室』も、映画のシナリオ術を勉強したい人だけに読ませておくのはもったいない本だった。新書館から初級篇と中級篇が既刊)。
 あとがき直前のページに読書案内が載っている。一番最初がいきなり雨宮まみの著書で(それから古今東西の名著が並び、光栄なことに最後に俺が書いた本も挙げてもらっていた)そうか、この本は雨宮の書くものにシビレた人たちにも、ぜひ読んでもらいたい本だなと思った。千野帽子も、雨宮の自己開示の勇気にシビレたのだろう。雨宮まみは『人はなぜ物語を求めるのか』をどう読んだろうか。彼女の感想が聞きたかった本が、最近、多すぎる。
(にむら・ひとし アダルトビデオ監督)