ちくま文庫

生き生きと描き出される週刊誌全盛期

ちくま文庫『週刊誌風雲録』解説

5月のちくま文庫新刊、高橋呉郎さん『週刊誌風雲録』より、梶山季之グループの一員として作中にも登場する元記者の中田建夫さんの解説を公開します。

 電車内で週刊誌を広げている人を見かけなくなったのはいつからだろうか。シートに腰掛けている人はもちろん、吊り革に掴まっている全員がスマホやガラケーをいじっている光景に出合ったことは度々あるけれども、週刊誌を広げている人には滅多にお目にかかれない。活字ジャーナリズムはITジャーナリズムに取って代わられたと言われるが、それでも夕刊紙やスポーツ紙に見入っている人は車内にけっこういる。にもかかわらず週刊誌の読者はほとんど見当たらないのだ。
 だが、敗戦後少なくとも昭和の終わるまでの間、週刊誌はマスコミ界の中心的存在だった。本書は著者が「あとがき」で述べているようにその週刊誌全盛期の通史を、現場で部数争いにしのぎを削った編集者、ライター、記者の群像をゴシップをたっぷり交えて蘇らせることで、生き生きと描き出していく。
 マスコミ史上、週刊誌ブームといわれる現象はテレビブームと同時期、昭和三十三、四年、皇太子御成婚のミッチーブームに始まるのだが、その序幕は早くも戦後間もない昭和二十二年に開かれていた。本書によれば朝日新聞社内のトイレでの論説主幹の嘉治隆一と整理部デスク扇谷正造の連れションで老舗「週刊朝日」に扇谷編集長が誕生したのが、週刊誌時代の幕開きとなったという。
 以後、扇谷「朝日」は吉川英治の小説『新・平家物語』、徳川夢声の対談『問答有用』という二本の連載を目玉に、雑誌ジャーナリズムを席巻していく。だが、一方で新聞社発行という大看板が邪魔になっていった。政治や財界のニュースの裏面を抉ろうとすると政治部や経済部からの駄目出しが入り、中途半端な記事になってしまう。また、新聞本紙の宅配ルートによる定期購読が圧倒的に多いため、巷の下世話なネタを扱う場合でも行儀よくせざるを得ない。つまり家庭に持ち込めるホーム・ジャーナルである。
 ところが、昭和三十一年二月創刊の「週刊新潮」を先駆けとする出版社系週刊誌の登場は、その弱点をつく形になった。「朝日」成功の最大の要因だった小説や読物は、出版社にとってはお手のものの上に、新聞社系のように他の部署の思惑に邪魔されることもないし、体面を気にする必要もなく、事件の裏に潜む人間の三大欲望「色、金、権力」を暴き出すことも意のままだった。
 「新潮」流の記事の際どさから、〝説教強盗〟ならぬ〝説教エロ〟という言葉が生まれたぐらいである。当時はまだ警視庁の猥褻観が頑なで、そこをすり抜けるのに例えば「こんなことをしてはいけません」と書く。「こんなこと」の部分は、つまりエロ描写というわけだ。それでもけっこう桜田門に呼び出されることは多く、ウソかマコトか他誌の間で「新潮」は出頭専門の警察OBを抱えているという噂が流れていた。
 また、新聞記者たちが知っていながら書けない、あるいは書こうとしなかった重大な事実を初めて取り上げて、世間に強烈なインパクトを与えることもやっている。例えば、アメリカが広島に設立していたABCC(原爆傷害調査委員会)についてのレポートである。原爆被害者たちはそれがアメリカの善意による治療のための機関だと信じていたが、じつは兵器である原爆の効果を調査するための機関だったという実態を詳細に報じたものだ(本書118ページ)。原水爆禁止運動が発足して三年という時期だっただけに衝撃度も大きかった。後に「文藝春秋」誌で立花隆が『田中角栄研究』を書いた時、政治記者たちが「俺たちがとっくに知っていることばかりで、目新しいことは何もない」と嘯いたのと同じ現象である。
 そして、昭和三十三年から三十四年にかけて「週刊明星」、「女性自身」、「週刊現代」、「週刊文春」など、創刊ラッシュとなり、本格的なブームの到来となる。当然のように優秀なライターは引張り凧の有様で、毎号トップの特集記事を書きまくることになった。それで〝トップ屋〟という業界隠語が生まれた。後の流行作家梶山季之もその一人で、新宿のバーで飲んでいると、かなり聞こし召した「朝日」前編集長の扇谷正造がやって来て「よっ、トップ屋さん、元気かね」と肩を叩かれたという。梶山はそれまでうかつにもその言葉を知らずちょうど仕立下ろしの背広を着ていたので、トップモード野郎とからかい半分褒めてくれたものと勘違いしてにやついたという。

 本書の著者高橋呉郎が週刊誌に首を突っ込むのも昭和三十三年秋だった。翌春から光文社への正式入社が決まっていたが、「女性自身」の創刊準備要員としてアルバイト動員をかけられたのだった。以後、同誌をはじめ「週刊宝石」、月刊「宝石」などで出会い、接触したライターの顔触れは錚々たるものがある。草柳大蔵を皮切りに梶山季之、竹中労、児島襄等々、後のスター評論家や流行作家などが出版社系週刊誌に注ぎ込んだエネルギーを、ページから溢れんばかりに著者は活写している。
 そして、「朝日」の扇谷正造、「新潮」の斎藤十一、「自身」の黒崎勇といった名編集者たちの独特の編集方針と読者を引きつける計算の確かさ。中でも直接の上司であった黒崎勇についての記述は微に入り細に入りで圧巻で、ぜひ直接読んでほしい。
 最後に一つだけ補足しておきたいことがある。197ページで「週刊文春」の梶山グループが放った初の長打として取り上げられている「怪文書『般若苑マダム物語』を追って」についてだ。警視庁も割り出せなかった執筆した犯人を本気で掴まえようと思ったが、あと一歩のところで時間切れとなったとされている。取材を担当した一人として言えば、確かに取り押さえることまでは出来なかったが、その氏名、職業、住所を割り出し、親族にも取材し、顔写真まで入手できた。だが、本人は九州方面に逃亡中でインタビューできなかったのだ。間もなく逃亡先で逮捕されて警視庁に連行されて来た時、その犯人は「出てきたら、文春に爆弾を投げ込んでやる」と毒づいたという。いつもはこちらが世話になっている某大手新聞の事件記者が顔写真を借りに飛んできたのも、ちょっとした自慢だった。
 夕刊紙と並んでストリート・ジャーナルの双璧といわれる週刊誌だが、かってはそれ以上にゲリラ・ジャーナルの面が強かった。またまた「文春」の例でおこがましいが、『般若苑』から二カ月後、今度は特別ルポと銘打って『日本の機密室―情報局は復活しつつある―』を掲載した。内閣調査室の下請け的存在の設立を報じた記事だが、記事中にはメンバー全員の集合写真が大きく掲載され、もはや情報機関としては役に立たなくなった。これは梶山部隊の取材デスクO(本書188ページ参照)のスクープだった。政府筋からは社の上層部にたいして厳しい抗議があったということだったが、現場の幹部たちはまったく意に介さなかった。
 二〇一七年の現在、週刊誌でこうしたゲリラ精神を持ち続けているのは一、二誌しかない。それが、電車内での読者皆無の状況をもたらしているのではなかろうか。

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