ちくま新書

憲法を曲解してきた東大法学部系憲法学者たち

7月刊『ほんとうの憲法――戦後日本憲法学批判』の序文を公開します。「国際協調主義」をないがしろにしてきた日本の憲法学界の立場が、国際的に見ていかに特異なものであるかを明らかにする話題の書です。

「法律の現実を形作っているのは法律家共同体のコンセンサスです。国民一般が法律の解をするわけにはいかないでしょう。素っ気ない言い方になりますが、国民には、法律家共同体のコンセンサスを受け入れるか受け入れないか、二者択一してもらうしかないのです。」(長谷部恭男早稲田大学教授[元東京大学法学部教授])

「まともな相手をする水準ではない」「無責任の極み」「かなりスキャンダラス」「あまりに無責任」「理解不能な水準」「あまりに稚拙」「あまりに姑息」「心の底から呆れ果てる」(木村草太首都大学東京教授[東京大学法学部出身]――国際政治学者・国際法学者が多数を占めた「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」について)

憲法学者コミュニティの知的閉塞
 果たして憲法は、憲法学者という肩書を持つ者だけによって独占的に解釈されるべきなのだろうか。憲法学者と異なる解釈をする者は、憲法学者と異なる解釈をしているがゆえに、非難されなければならないのだろうか。
 憲法典の解釈も、「立憲主義」の解釈も、憲法学者が独占的に行うべきとされ、総理大臣も国際政治学者も、憲法学者の解釈にしたがうのでなければ侮蔑される。絶大な社会的権力を誇る戦後日本の「抵抗の憲法学」のドクトリンである。
「立憲主義とは、権力を制限することだ」と日本の憲法学者は断言する。「国民主権」の神聖視と両立させるための立憲主義の理解だ。統治権力者を一方的に制限する、と宣言し、主権者は国民だ、と唱える。
 しかも「制限」の仕方は、一握りの人々からなる「法律家共同体」によって決定されるという。つまり「日本の立憲主義は、憲法学者とその弟子たちが、国政のあり方を決めることである」と言うのと変わりがない。
 憲法学者は、日本社会において絶大な権力を誇っている。憲法学者の書いた基本書を信奉するのでなければ、司法試験に受からない。それどころか公務員試験ですら通らない。学界のみならず、法曹界、官僚機構、そして政界にも絶大な影響力を誇るのが憲法学者である。
 しかもその憲法学者たちのコミュニティは、他の学科と比べても際立って東大法学部を頂点とするピラミッド型の権力構造が顕著だ。たとえば2015年安保法制をめぐっては、多くの国際政治学者や国際法学者が合憲と考えた。その一方で、多数の憲法学者が違憲論を展開したが、中心的な役割を担ったのは東大法学部出身の憲法学者たちであった。違憲とは言えない、という立場をとった少数の憲法学者は、ことごとく非東大系の憲法学者であった。
「芦部信喜を知っていますか」と安倍首相に尋ね、首相が「知らない」と答えると、そのこと自体を批判した国会議員がいた。ある特定の学者を知らないことによって首相が批判されるという事態は、前代未聞だろう。このような事態が、東大法学部憲法学者の名前をめぐる場合以外に起こりうるだろうか。
 故芦部信喜東京大学法学部第一憲法学講座担当教授(長谷部教授は芦部教授の直系弟子、木村教授は孫弟子にあたる)は、戦後の憲法学界に長く君臨し、今でも司法試験・公務員試験受験生にとって必須の基本書の著者である。ある一つの法的判断をする際に、有力な法学者の意見を参照するのは、法学のみならず法律実務においても、普通に見られる手法だ。しかしだからといって、結局われわれに残されているのは、芦部説という「法律家共同体のコンセンサス」を受け入れて「共同体」の住人になるか、「コンセンサス」を拒絶して「共同体」から外れた無法者になるかの二者択一だけなのだろうか。そうだとしたら、憲法解釈とはなんと無味乾燥な作業であるか。
 木村草太教授の推論方法では、次のように違憲・合憲を決していく。「たいていの憲法学者が憲法違反と言っていますし、国民の間でもそのことが理解され、『憲法違反だと思う』というような回答が世論調査で多数を占める状況になっています。したがって、法案が憲法違反であるという点は決着がつきました」。
 私は前著『集団的自衛権の思想史』(読売・吉野作造賞受賞)で、こうした現状の背景にある仕組みを、理論的・歴史的観点から問いなおした。憲法学者のアンケートで多数が違憲と答えると違憲が確立される、といった考え方の背景には、東大法学部系の日本の憲法学の特異性があるということを論じた。「集団的自衛権が違憲とは言えないなんて、芦部信喜先生の基本書も読んでいないのだろう」といった姿勢を「知性主義」と呼ぶ奇妙な風潮こそが、私には日本社会の閉塞した現状を物語るような事態だとしか感じられない。

国際協調主義から理解すべき日本国憲法
 私は、平和構築という政策領域を専門にする国際政治学者である。憲法学が専門ではない。しかし日本の国際平和活動への参加にあたって憲法解釈は大きな意味を持っているので、私は人並み以上の関心を、憲法問題にも持っているつもりではある。国際社会の平和と安全の維持に関わる国際法にも、大きな関心を持って仕事をしてきた。もともと紛争後社会の平和構築の政策において、立憲主義の確立という「法の支配」に関わる問題は、重要な問題領域だ。
 安保法制をめぐって憲法学者の方々が一斉に集団的自衛権違憲論を唱えたとき、話の前提に違和感を覚えた。そこで、前著『集団的自衛権の思想史』を著した。憲法学者が自明の真理と信じている事柄が、必ずしも憲法典上の根拠を持つものではなく、むしろ単に明治期以来の東大法学部憲法講座の伝統を踏襲しているにすぎないものだということを指摘した。その議論によって前著はそれなりの反響を呼んだ。
 ただし前著は、集団的自衛権の思想史という観点から記述をしたものだったので、もう少し広い観点から背景に存在する問題を論じる機会があればとは感じていた。そこで前著で論証したことをふまえつつ、よりいっそう広い間口から、憲法をめぐる閉塞状態を問うべく、私なりの「国際協調主義の日本国憲法」という関心から書いてみたのが、本書である。
 日本の憲法学で通説とされている憲法解釈は、必ずしも絶対自明ではない。むしろ歪(いびつ)なものであるかもしれない。日本の憲法は、より簡易に、素直に解釈することができるし、むしろそうすべきだ。そこで私は、「国際協調主義」の理解に焦点を当ててみる。
 本書は、日本国憲法の前文に書かれている「国際協調主義」の精神を強調する。そして実は「立憲主義」は、国際的・歴史的に標準的な理解にもとづけば、日本の東大法学部系の憲法学者の方々の歪な解釈を離れて、「国際協調主義」を基調とする日本国憲法の理解を補強する、と主張する。

国際的標準ではない日本の「立憲主義」
 日本の憲法学者は、「主権者である国民が政府を制限するのが立憲主義だ」と強調する(そして前述のように、国民が政府を「制限」するやり方を定めるのは、官僚や学者からなる「法律家共同体」である)。確かに「立憲主義」の下では、政府は、行政府も立法府も、憲法規範には従う。だが万能の絶対者であるかのような「主権者・国民」による一方的な政府の制限を「立憲主義的」と呼んだりすることが、妥当であるとは思えない。「法の支配」を標榜する「立憲主義」は、「人の支配」を克服するものでなければならない。政府を制限し続けるが、国民は制限されてはならない、などと語るのは、歪な絶対主権の信奉でしかない。
 国際的に標準とは言えない「立憲主義」の定義を持つからだろうか、日本の憲法学者は、国際法や国際政治の動向を軽視する傾向があるようだ。極端な場合には、国際法や国際政治が間違っており、日本国憲法(に関する憲法学者の基本書)が正しいのだ、といったことを主張している場合すらある。だが実際の日本国憲法は、「国際協調主義」の重要性を強調している。国際社会との協調という憲法典からの要請は、憲法学においてほとんど無視されてしまっているのである。果たして本当にそれでよいのだろうか。
 日本の憲法学者は、戦前に大日本帝国憲法が成立したときから支配的であったドイツ法学の伝統のためか、戦後に主流となったフランス革命史を参照して日本国憲法を解釈する姿勢にこだわり続け、絶対的な国民主権の概念を、憲法解釈の究極的な尺度とすることを当然としてきた。そこから「国民」が「自分自身」を守る民衆蜂起だけが合憲だ、といった類(たぐい)の抽象的な「国民」や「国家」を観念論的に振りかざす議論も発達させた。
 しかし実際の日本国憲法の思想的基盤は、ドイツやフランスというよりも、英米系の法思想、特にアメリカ流の法思想にある。後者においては、主権の概念を相対化する伝統が根強い。英米圏で発達した「立憲主義」は、国民による政府の制限ではなく、憲法規範による社会構成員全員の制限によって定義される。むしろ歴史的には、主権者であってもなお、憲法規範によって制限される、という考え方を表現するために、「立憲主義(constitutionalism)」という概念が成立・発展してきた。
 政治共同体の根本的枠組みを定める規範には、社会構成員全員が従わなければならない。国民が政府を制限しているかどうかが重要なのではない。「法の支配」が貫徹されているかどうかが、立憲主義にとって一番重要なことだ。
 個人の自然権を絶対的なものとみなし、その権利を守る。それが出発点となって、社会構成員による社会設立のための社会契約、政府と人民の間の統治契約が説明されていく。国民に主権がある、という思想は、個人の自然権の絶対不可侵性にもとづいて社会が成立しているという根源的な認識と比べれば、二次的な重要性しかない。個人の自然権の絶対性が、立憲主義思想を支える社会契約論を生む。その社会契約論によって、主権の様態が決まる。権利があって主権が構成されるのであり、逆ではない。
 重要なのは、権利を保障する立憲主義的な法秩序である。立憲主義とは、「法の支配」の貫徹である。
 残念ながら日本では、多くの憲法学者が、このような「法の支配」としての「立憲主義」の考え方を必ずしも強調していない。むしろ主権者である国民が政府を制限する、という権力関係の契機を強調する。
 各種試験や学校教育も、憲法学者の意向にしたがった内容で進められている。そのため、普通の人々もまた、国民が絶対的主権者として政府を制限しているかどうかに気を取られ、国民主権に対しても屈することがない「法の支配」を貫徹させる「立憲主義」の理解に注意を払わない。

国際協調主義を重視した憲法解釈へ
 こうした残念な思想的土壌があるがゆえに、日本国憲法で強調されている「国際協調主義」が、憲法学においては、これまで軽視され、無視されてきたのだと言える。国民が絶対的な主権者だ、というテーゼに立ち戻ることが常に基本だとされているため、国民の存在をこえた国際社会と協調していくことが、二次的な問題として扱われてしまうのである。
 国内の立憲主義に関心がないのであれば、国境をこえた立憲主義にも関心があるはずがない。国際的に広がる基本的人権の擁護の問題、国際的な法の支配の文化の広がりなどは、日本ではほとんど注目されることがない。さらには国際的な安全保障体制の仕組みですら、注目されることが少ない。
 しかし「国際協調主義」は、日本国憲法における重要な柱である。「国際協調主義」を重視した上で憲法典に体系的な解釈を施すことは、極めて重要な作業であると思われる。
 そもそも日本国憲法は、戦争で敗北を喫した後に受けた占領統治の結果として生まれた憲法典だ。国際社会との関係をふまえながら憲法解釈を行うことは、本来は必須の作業だ。「紛争後平和構築」政策の一環としてアメリカをはじめとする諸国の関与をへて制定された日本国憲法を、歴史的文脈から完全に切り離してしまうことは、憲法解釈として適切な態度だろうか。政治イデオロギーにかかわらず、事実を見つめ、「国際協調主義」の要請を引き受けて、憲法を解釈すべきではないだろうか。
 このように「立憲主義」と「国際協調主義」を十二分にふまえた上で、あらためて憲法を見ると、既存の憲法学によって説明されるのとは少し異なる憲法の姿が立ち現れてくることになる。本書はそれを、新奇で独創的な憲法解釈として、提示するつもりはない。むしろ既存の「抵抗の憲法学」における新奇で独創的な憲法解釈とは違う、より自然で素朴な憲法解釈として提示したいのである。