ちくま学芸文庫

一百四十五箇条問答

7月刊のちくま学芸文庫、『一百四十五箇条問答――法然が教えるはじめての仏教』より、石上善應氏による解説を掲載します。浄土宗勧学として多くの人々に法然の教えを伝えてきた石上氏は、この問答集の根底にある「同体の念仏」こそが重要なのだと説きます。

同体の念仏をこそ

 法然は一度も会ったこともない、中国・唐の善導を「我が師」として尊崇した。その善導は『観無量寿経』の註釈書である『観経疏』玄義分の中で、

  「(浄土の教えは)定んで凡夫のためにして、聖人のためにせず」

と教えさとした。それを受けて、法然はかく申したのであった。

  「われ浄土宗を立つる意趣は凡夫の往生を示さんがためなり」(醍醐本『法然上人伝記』)

  凡夫とは「悟りに達していない、凡庸浅識の人」(『岩波古語辞典』)とある。そのような凡夫のために浄土の教えはあるのであり、浄土宗はまさに、凡夫が往生するためのものであるという。
 善導には「念念の称名は常の懺悔なり」ということばがある。「一念一念、阿弥陀仏の名を称えることにより、懺悔と滅罪がなされる」というのである。この言葉をつぶやくごとに、善導その人のまじめな言動が思い出されるのである。日本の浄土教を思うたびに、平安時代までの仏教の、修行して解脱し成仏することを建て前としてきた伝統と、煩悩具足の凡夫がそのまま往生すると説く法然の教えとの対比に、不思議な思いを抱くのである。
 あるとき、鎌倉時代の研究家に立ち話であったが聞いたことがあった。法然の時代、識字率はどのくらいかと。すると、あなたはどう思うかと問われ、二、三割かなというと、当たらずとも遠からずだと言われ、ただし、御家人を入れてですよと答えられた。
  御家人といえば、熊谷直実がすぐに思い浮かぶ。そして、直実の文を隆寛律師が手を入れて、かな文字を漢字に直したことや、『鎌倉遺文』第一巻の文の読みにくさ等(唐木順三『あづまみちのく』中公文庫)もまた思い出されるのである。
 仮りに、当時、一千万人くらいの人口として、そのうち成人はどれくらいかと考えると、三割として三百万人ぐらいであろうか。識字率を二、三割として、直実のような御家人を除くとなると、仏典が読める人たちはいかに少なかったことか。その上、すらすら読める人ともなれば、今さらいうまでもないほどに少数であっただろう。では、いったい誰のために仏教はあったのだろうか。
 お百姓といえば、小作人がほとんどで、朝から晩まで働いている。畠に出ている中で、その人たちにできるのはお念仏なのである。法然の望みはその人たちに念仏を手渡すことであったと思う。『一百四十五箇条問答』は、問答の外にある人びとにこのような話を聞かせたい、との思いで語られたものだと思う。その一端が法然上人が逝くなられた後の、「阿弥陀如来立像胎内文書」の「念仏結縁交名」に、あらわれているように思うのである。
 さらに、次の書を紹介したい。
  大戸安弘・八鍬友広編『識字と学びの社会史――日本におけるリテラシーの諸相』(思文閣、2014 年10月)

 本書2章「「一文不通」の平安貴族」(鈴木理恵)の中の「読み書き能力不足の貴族」によると、平安貴族には当然持つべき読み書きの能力がすべて不足していて、自己がなすべき仕事の担当ができていないことなどが記録から分り、すでに貴族としての資格がないことが克明に語られている。貴族ですら、伝統仏教の担い手としての能力に不備があったのだ。
 私たちは、自身がまとっている愚かさを捨てて、「一枚起請文」に戻るべきである。
 「一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無知のともがらに同じうして、智者のふるまいをせずしてただ一向に念仏すべし」とあるけれども、なかなかこの通りにはできない。「尼入道」という言葉が一語か二語かと気にしているありさまだ。法然と阿波介の念仏は同一ではなかったか? 法然はそのことを嘆いている。まさに同体の念仏でなければならなかったのに、区別し、分別している私共なのであった。愚直な思いにまず立って、同体の念仏を樹立するべきである。
 法然の「つねに仰せられける御詞」の中にある言葉を思い出したい。

 たとい余事をいとなむとも、念仏を申し申し、これをする思いをなせ。 余事をしし、念仏すとは思うべからず。

 この言葉を反復することによって、同体の念仏が本物になるような気がしてならない。『一百四十五箇条問答』の真意が、そこはかとなく、理解できるような気がしてくるのである。

                                   石上善應

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