単行本

棒球を輝かせる人

穂村弘著『絶叫委員会』

 ここにあるのは、日常の、だれでも手のとどく場所から拾われた「偶然性による結果的ポエム」のアンソロジー、だろうか? 微妙な云い方である。「結果的」 とは、かならずしも労せずして得られたという意味ではないからだ。「結果的」にそうなっているかのように読ませる、よい意味での詐術がここではふんだんに発揮されているのであって、そこを見誤ると、笑いの取れる奇妙な言葉の事例集にしか見えなくなる。
 引かれている例は、どれもこれも面白い。電車のなかで絶対に読んではいけないような下ネタから、不条理に硬直して息が止まりそうになるものまで並んでいるのだが、どこにいても、穂村弘は冷静である。絶叫によって破れるのは私たちの住むこの世界ではなく、ひとりひとりが抱いている世界観にすぎない。それを知り尽くしている人にのみ可能な冷静さ、と言ってもいいだろう。だから、本書における絶叫とは、言葉を拾い集めた人から発せられたものというより、世界観の揺れのなかでなんとかぐらつかずにいる観察者のどこか気弱な踏ん張りに対して、私たちがあげる共感の声なのである。
 「俺の靴どこ」が最後の言葉ってお母さんは折れそうに笑って
 剣道の試合をしたあと倒れて亡くなった少年の、母親の言葉を引いたという伴風花の歌。穂村弘はこの括弧の中の言葉に注目し、「非情な云い方になるが、これは日常性のなかでは絶対に掴むことのできない宝石のような情報だと思う」と書く。何気ない一節だが、ここには「結果」を導くための、いくつかの操作が行われている。歌そのものへの評価、母の悲しみに対して「非情な云い方になるが」と断る気遣いとやさしさの表明、そして、日常性を超越し、通常では手にしえない宝石の喩えを用いての、抽象化への意志。少年の言葉に「凄まじいリアリティと輝き」を見出すのは、そのあとのことだ。
「俺の靴どこ」は、それだけでは、けっしてリアリティのある表現ではない。穂村弘と呼ばれる観察者の眼と認識装置が介在してはじめて、そこに特異な現実感が付与されるのであり、装置を外してしまえば言葉はありふれた言葉に戻って、日々に埋没していくだろう。それをさらりと(見えるように)つまみ上げ、だれも気づかなかったファセットをカットして宝石に仕上げるのは、まちがいなく才能である。
 しかし、彼はその才能を、羞恥心と驚きを装って巧みに覆い隠す。ことあるごとに「衝撃」を受け、「鳥肌が立つ」ほど驚いて茫然としているふりをしながら、 おおもとにある言葉は残酷な天使の指でしっかりメモし、必要とあらば二十年も寝かせておく。そして、ここぞというときに抽象の寸鉄をポケットから取り出して、何食わぬ顔で人の心を刺すのだ。
 言葉が「棒球ではなく他者の心を貫くストレート」となり、「自己と世界の間に横たわる絶対的な亀裂を飛び越す」力を得たとき、リアリティが生まれる。しかし、そのリアリティの起源には、「言葉のカテゴリーや文法の僅かな狂い」(「バーベキューってやる」)や「現場の弾力に身を任せる」即興性、あるいは世界を立ち上げる名指しに等しい事物の提示(「梅干しの種の毛」)などの、どちらかと言えば肯定的な飛び越しに属するものと、そうでないものがある。この両面を認めないと、完全なリアリティにはならないことも、彼はよく知っている。だから、油断をすると刃物がすっと伸びてくる。「他者性を欠いた表現」、「何かを捨ててしまった」、あるいは「表面的な矛盾を整理して辻褄を合わせた」言葉に相対したとき、穂村弘はおだやかな仮面を脱ぎ捨てて、義憤の人になる。義憤とは単数の絶叫を超えた複数の世界であり、架空の委員会決定を盾にした複雑な形態の私憤だ。これはまちがっている、なにかがおかしいと主張すればするほど、憤りの表現は見えない複数に気兼ねして、「棒球」や「他者性」の欠如に近づいてしまう。それをいかに避けるか。穂村弘のほんとうの「絶叫」は、その困難な戦いの中から発せられているのだ。
 笑みを浮かべながら、架空の鳥肌を保ち続けること。絶叫委員会会則その一には、そう記されているにちがいない。

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