ちくま学芸文庫

蘇った〝坂学〟のバイブル

横関 英一著『江戸の坂 東京の坂(全)』

 私が「江戸・東京の坂」を歩き始めてから二十数年が経つ。東京の街をもっと知りたいという単純な動機から、都心をひたすら徘徊していたときがある。そのころ偶然にも、坂脇に建てられた標柱に出合ったのだ。それには、坂の由緒や成立時期などが簡潔に記されていた。中でも坂名の由来の面白さには心ひかれた。坂への関心の扉が開かれた瞬間だったかもしれない。
 そして同じころ、これも偶然だったが、神田の古本屋で一冊の本に目がとまった。横関英一著『正続 江戸の坂 東京の坂』である。昭和四十五年一月二十日発行とある。横関氏は明治三十三年生まれで、このとき七十歳である。坂の専門書があることにも驚いたが、目次を一瞥して、坂に歴史があり、それが多角的に分析、探求されている事実に驚愕した。
 しかし、初心者の私にとって、この本の内容を十分に理解することはできなかった。その坂の場所や特徴など、すべての基礎的知識が不足していたからに他ならない。
 そこで巻末に掲載されている「江戸東京坂名集録および索引」を参考にして、東京中の坂を踏破することを決意した。まず、市販の地図に坂名を転記し、実際に歩いて、一つ一つの坂の位置を確認する作業に入ったのだ。これは意外にも手間取った。標柱のない坂では迷うことが多く、時には地元の人に聞いたりするのだが、それでも覚束ないことがしばしばだった。江戸時代に命名された坂(約五〇〇。坂の数は、後の調査・研究で刊行時より増えている)と、明治以降に命名された坂(約一四〇)の全坂を把握するには二年半もかかってしまった。
 その後、“横関本”を本格的に読み返してみた。フィールドワークが役立ったのか、以前より内容を深く理解することができた。坂の傾斜や形状、周辺の町並みなどが浮かびあがってきて、坂を立体的にとらえられるようになったのだ。
 横関氏の“坂学”はまさに先駆的だった。古地図や地誌などの史(資)料を渉猟、解析するだけにとどまらない。諸分野の深い知識から、創造性に富んだ新説が導き出されているのだ。当時の興奮・感動が忘れられない事例を二つ紹介したい。
(一)「南部坂」と呼ばれる坂は、赤坂と南麻布の両方にある。赤穂浪士の大石内蔵助が、浅野内匠頭の後室・瑤泉院に別れを告げに訪れたとされる坂は、果してどちらの坂だったのか。横関氏は、正保元年図と寛文図を駆使して、盛岡藩南部家と赤穂藩(および三次藩)浅野家の屋敷の変遷をたどった。そして、元禄十五年の時点では、南部邸は南麻布にあり、瑤泉院が身を寄せた浅野邸(三次藩)は赤坂(現・氷川神社)にあったことを証明。内蔵助の「雪の別れ」は赤坂でなければならない、とした。
(二)市谷砂土原町に、あだ討ちで名高い「浄瑠璃坂」という坂がある。坂名の由来には、坂上にあった光円寺の本尊・薬師如来が東方浄瑠璃世界の主だからとか、坂であやつり浄瑠璃の小屋興行があったからとか諸説ある。しかし、横関氏は川柳の「浄瑠璃坂は五段につづいている」を手がかりに、この坂は六段の坂だったのではと推理する。この坂の近く、西方の尾張屋敷(現・防衛省)にはかつて「五段坂」という坂があった。「五段につづいている」とは、道筋と数字(五と六)がつづいていることを指す。本来なら「六段坂」というべきを、当時隆盛だった浄瑠璃の三段物、五段物などの段になぞらえて、「浄瑠璃坂」としゃれこんだのではないかという。「紀尾井坂」「二合半坂」「三べ坂」など、江戸っ子のユーモアは横溢している。
“横関本”のさらに注目すべき点は、昭和三十五年九月から四十二年七月にかけて、著者自身によって撮られた写真が多数掲載されていることである。東京が大開発の波にのみこまれる直前のころで、坂の光景はもちろんだが、オート三輪や電柱の広告などから当時の社会状況が読みとれる。坂の考現学としても貴重な資料というべきである。
 このたび本書が「ちくま学芸文庫」として刊行されることは、坂ファンの私にとって望外の喜びである。坂のバイブルはこれからも多くの読者に読み継がれるにちがいない。

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