ちくま文庫

源氏鶏太作品は、たまらなく魅力的なのである

源氏鶏太『家庭の事情』(ちくま文庫)解説より

11月刊行のちくま文庫、3冊目の源氏鶏太作品『家庭の事情』より、印南敦史氏の解説を転載いたします。 “いま、源氏鶏太作品を読むこと”にこそ、大きな意味と価値があります!!!

 源氏鶏太を知ったのは、たしか中学生か高校生のころだった。活字が好きで、目につくものを片っ端から読んでいたころ、たまたま手にとったのだと思う。つまりは偶然出会ったようなものなのだが、結果的に源氏ワールドは、僕にとってかけがえのないものとなった。
 とはいえ昔のことなので、最初になにを読んだのかは覚えていない。けれどもあっという間に魅了されたことは間違いなく、次から次へと読み漁ったのだ。多いときには、一日に数冊読んでいたほどである。別に、自分の読書ペースを自慢したいわけではない。それどころか、僕は「遅読家」についての本を出しているほど読書ペースが遅い人間だ。しかし、源氏作品ならそれが可能だったのだ。なぜなら堅苦しくもなく、難解でもなく、むしろ驚くほど親しみやすかったのだから。読みやすく、ストーリーは痛快でおもしろすぎるので、興奮状態が止まらなくなったということである。 なぜ、そんなことになったのか。理由はいたってシンプルだ。基本的には〝勧善懲悪〟であり、正しい者が勝ち、悪人は負ける。そんな、大衆小説ならではのわかりやすい図式が源氏作品には貫かれている。つまり誤解を恐れずにいえば、そのプロットは漫画のそれにとても近いのでスラスラ読めるのだ。
 そんなこともあり、描かれる物語にはいくつかの〝お約束〟がある。主人公は、才気にあふれるが生意気な若手社員だったり、誰にでも噛みつく定年間際のおじさんだったり、貧しい家庭に生れながらも、身も心も美しい娘だったり多種多様。その多くが不幸な境遇や、なにかの壁にぶつかっていたりする。物語の進行とともに、多くの苦難に見舞われることも少なくない。しかし最終的には、周囲の人に助けられながら幸せをつかむのだ。
 都合のいいときに都合のいい相手と街でばったり出会ったり、たまたま紹介してもらった相手と運命的な立ち回りをすることになったり、危機一髪のところで助けられたり、現実的にはありえないエピソードの連続である。漫画に近いと書いた理由は、まさにここに集約される。早い話が、お伽話なのだ。でも、それでいいのだ。
 たしかに、「こんなにうまくいくはずがないよ」と思わせる部分がたくさんある。でも、それが楽しい。「それでもいいじゃないか。だって、読むだけでこんなに幸せな気分になれるのだから」と思わせる説得力があるのだ。そんなお約束感が、たまらなく魅力的なのである。

 いわば源氏世界においては、読者の「こうなってほしい」という思いに沿った形で主人公が救われていくのだ。苦しんでいた主人公は最後に苦難を乗り越え、主人公を苦しめる相手はクライマックスで負けを認めざるを得なくなる。だから読者は、現実世界では解決不可能な人間関係のしがらみなどを、作品を通じて解消できたような気になれる。そこが共感を呼んだからこそ、源氏は昭和を代表する大衆小説家として支持されたのだ。しかも数十年にわたり、サラリーマンとの二足のわらじを履きながら傑作を量産してきたのだから、そのパワーには驚かされるばかりだ。

 そんなわけで、僕にとっても忘れられない作品は数多い。まず最大のおすすめは、お人好しの桜井大伍くんと隣の席の山吹桃子さんを軸として話が進んでいく『明日は日曜日』(一九五三年)。どの回も「明日は日曜日ね」という会話で幕を閉じる、ほのぼのとした作品である。また、後期の作品『ずこいきり』(一九七二年)も痛快だ。熱血漢の主人公、青山庄平が活躍する勧善懲悪の展開は、いかにも源氏鶏太らしい。一方、主人公である矢沢章太郎の停年退職にまつわる悲哀を描いた『停年退職』(一九六二年)に代表される、物悲しい作品も捨て難いところではある。こうして書き連ねていくだけでページが埋まってしまいそうだが、実に魅力的な作品が多いのである。

『家庭の事情』は、一九六一年に雑誌『オール讀物』に連載されたファミリー小説である。翌年には、吉村公三郎監督、山村聡、若尾文子、叶順子らのキャスティングによって映画化もされている。なお二〇〇七年に、『家に五女あり』というタイトルでドラマ化されたこともあるという。
 七年前に妻を亡くした主人公の三沢平太郎は、五人の娘の父親。三十年のサラリーマン生活を終えた結果、退職慰労金の二百万円、預金の百万円、合計三百万円が残った。そしてこの三百万円を、自分と娘を加えた六人で均等に分けようと提案する。ひとり五十万円ずつというわけだが、これは現在でいえば二百五十万円程度だろうか。いずれにせよ、若い娘たちにポンと与える額としては破格である。だから娘たちも、突然手にすることになった大金をどう使うべきかと思案することになる。
 二十六歳になる長女の一代は、勤め先の課長の落合英二と不倫関係になるが、捨てられた結果、ひとりで生きて行く決心をする。父からもらった五十万円と自らの退職金、妹から借りたお金で、喫茶店「赤いトビラ」を開店するのである。やがて同じ建物に勤める建築家の杉本五郎と出会い、新たな人生をスタートさせる。
 次女の二美子は、S電気工業に勤める二十三歳。五十万円は、「倒産の危機に瀕する兄の会社の再建のためにお金が必要」だという恋人の長田吉夫に全額貸してしまう。ところが長田は、兄の取引先の会社の社長令嬢と金銭結婚することになり、裏切られた二美子は五十万円をも失いかける。しかし、同僚の石辺太郎の尽力により、五十万円は無事に戻ってくることに。それまでは石辺を煙たがっていた二美子は、それをきっかけとして石辺と結ばれる。
 二十三歳の三女である三也子が選んだのは、五十万円すべてを貯金しようという手堅い手段。恋人もおらず、いつかそのお金の一部を使って旅行をしようと考えている程度だったが、結果的には再就職した父と同じ会社に勤める竜田竜吉と結ばれることになる。
 二十一歳の四女志奈子はしたたかで、自分に好意を寄せる三人の男性を操縦し、いちばんお金を増やせた相手と接吻をするという約束を取り交わす。ところが恋愛感情には勝てず、最後にはいちばん儲けの少なかった久保隆太と結婚する。
 志奈子に匹敵するほどの現代っ子ぶりを見せるのが、十九歳になる五女の五百子だ。Y化学工業の総務課に勤める彼女は、五十万円で金貸しをはじめるのである。しかし結果的には、浪費家の広瀬和孝と結婚することになるというというのだから、これはおもしろい結末である。
 そして、退職後にR産業の嘱託として再就職した父の三沢平太郎だ。真面目に勤め人として生きてきた彼は、自由になりたいという思いから、料理屋の女中である玉子と交際する。しかし、お金目当てだったことがわかり失意の底に落とされるのである。その過程を眺めていたR産業の竜田竜吉が抱いた「いくら分別のある男でも、中年を過ぎてから遊びを覚えると、あの様なバカになってしまうのであろうか」という思いが、平太郎の姿を見事に言い表している。だがご心配なく。最後は、かねてから再婚を勧められるも断り続けていた愛沢安子と結ばれることになるのだ。
 このように、六人が六人、問題を抱えながらも、それらを乗り越えていくさまが同時進行で語られていく。興味深いのは、ラストで平太郎と五人の娘全員がそれぞれの幸せをつかむという〝タイミングのよさ〟だ。同時に六組のカップルができあがるということは、現実社会ではあり得ないかもしれない。が、それこそが痛快な源氏鶏太的世界なのである。現実がどうあろうとも読んでいてまったく違和感はないし、それどころか爽やかな読後感が残るのだ。

 ところで源氏鶏太については、ずっと気になっていたことがある。サラリーマン小説の旗手として時の人となった彼は一九五一年に『英語屋さん』で直木賞を受賞しているし、多くの作品がドラマ化、映画化されてもいる。映画化された作品だけでも八十本に及び、つまりはどう考えてもモンスター級の作家なのである。にもかかわらず、少なくともここ数年まで、その作品はすべてが絶版だったのだ。
 大作家の作品が、ここまで無視されていたという事実には違和感があるかもしれない。しかし残念ながらそれは、大衆小説の宿命でもある。つまり必ずしも「文学的価値」があるとはいえないだけに、文壇から忘れ去られていくことになったのだ。だがその一方で重要なのは、現実的に源氏作品が多くの〝生活者〟に支持されていたという事実である。端的にいえば「みんな、それぞれの場所でがんばっているんだな」ということを、作品を通じて実感することができるのだ。
 源氏作品の絶頂期と重なる高度経済成長期は、華やかに語られすぎるきらいがある。しかしその背後に、個々の労働者の日常的な努力や苦悩があったことを忘れるべきではない。それが〝結果的に〟日本を成長させたということだ。源氏作品は、そんなことを改めて実感させてくれるだろう。
 そして、そういう根源的な部分は、現代とも少し似通っている。もちろん経済状況は大きく異なるのだが、「労働者の努力や苦悩」という部分に、なんらかの共通点があるように思えてならないのだ。だとすれば、源氏作品に表現されたさまざまな人間像は、「いまだからこそ」読者に訴えかけるのではないか。そういう意味で、二〇一六年二月の『青空娘』、同年九月の『最高殊勲夫人』(ともにちくま文庫)と、源氏作品が相次いで復刻されたことには大きな可能性を感じる。もちろん、それは本作も同じだ。単なる懐古趣味ではなく、〝いま、源氏作品を読むこと〟にこそ、大きな意味と価値があるのである。