紙子と学校

都心の一等地にあり、帝に仕えるための特殊技芸者を養成する中高一貫の女子校・玉笛女子学園。中等部に入学し寮で同室となった紙子と陽子は、不思議な先輩や先生たちとの交流を通じて成長していく。気鋭の詩人による和風学園ファンタジー、ここに開幕!(カット:鯨庭)

おく山の杉の下みちききなれぬけものさけびて日はくれにけり
(『類纂 新輯明治天皇御集』)

   *

 古木の根元にぽっかりと空いた洞に身を隠し、大山の崖から滑落した時に痛めた筋を癒すようにまどろんでいた窟穴彦(クチナヒコ)は、目を見開いた。
 土の上に落ちた、巨大な手の影が、暗く自分の前をゆっくりと塞いでいく。影を縁取る光は、紙のように白い。
 尖った指先は、意識をもつ檻のように、窟穴彦の眠る木の洞を今にも塞ごうとしている。
 腰ベルトに提げた軍刀を引き寄せ、温かな木の洞から飛び出した。素早く視線を上げた窟穴彦が見たのは、強大な妖魔や鬼の手ではなく、先が幾重にも分かれた、杉の枝だった。
(手じゃない)
 烏山の端から、熱球のように大きく熟れた丸い月が、顔を覗かせたところだった。あまりにも月が明るかったために、自分が身を寄せていた大樹の影を、手のひらと見誤ったのだ。
 木影は湿った音をたてながら揺れている。十八歳になった窟穴彦の体を、影は無神経になでまわす。
 初太刀で、斬った。生木であるために、ぶっつりと切れた。切れ目から、血のように青い汁が噴き出し、服を濡らした。黒髪の長い人が、頭から倒れるような音がして、烏がばたばたと飛び去った。地に倒れ伏した木の幹を、軍靴の裏で踏みつける。水っぽくしなる生木は、窟穴彦の足を弾ませ抵抗しようとしたが、徐々におとなしくなり、静かに踏み砕かれていった。
 月光が、窟穴彦の瞳に沈む、水の色を浮かび上がらせた。
(こんなところを見たら、あいつらは腹を抱えて笑うのだろうな)
 あの二人の笑い声は、声変わりの前と変わらない。青い瞳を持つ窟穴彦が、たびたび思い出すのは、隼人連中の「縦」のつながりでなく、朱彦、繭彦を始めとする、異なる職能をもつ者の「横」のつながりだ。窟穴彦は肩から羽織っていた学生服を脱ぎ捨て、中に着た白いシャツのボタンを外し、襟を広げた。少し、息苦しい。夜風が、首にまとわりつく、重たい熱をなだめていく。体を屈め、両手で顔を覆った。短く刈った黒髪から、汗が流れる。それなのに、指先まで血の気が引いている。
「大丈夫だ、大丈夫」
 口に出してみる。こんなに具合が悪くなる理由は、分かっている。木の影を、手の影と空目した。それだけだ。
 いつの間にか、胸の中で、暗い手の影が、光るように白い、小さな手のひらに置き換わっている。草の上に落ちた、弟の小さな手。
「大丈夫だ、大丈夫」
 あの時、そう声をかけてくれた、八瀬童子の男の声もよみがえる。

 巨木の枝が落ちて、見通しが良くなった。木々の隙間から、黒い山に灯る赤い光が見えた。烏山で暮らす八瀬童子たちの、屋敷の灯りである。そうなると、窟穴彦の阿多家に近しい隼人が護る陵は、ちょうどあの対側にあるだろう。
 まだ日が出ていた時間に、自分が今いる場所を探ろうとして、カラスにつつかれながら、木に登った。一番背の高い木を選んだはずだったのに、まるで上から手で撫でならされたかのように、木々の背丈は均一で、鬱蒼としげる森から顔をだすことができない。朱彦と繭彦とはぐれた大山に戻ろうとしても、自分の居場所さえ分からなかったのだ。
 八瀬童子の屋敷の灯火を見つけ、思わず笑みがこぼれた。ようやく、三人組の訓練に合流できるかもしれない。窟穴彦は、隼人の犬吠(いぬぼえ)に耳を澄ませた。きっとここからでも、聞こえるはずだ。伝令だけでなく、魔除けの際にも、隼人は犬の鳴き声を真似て歌うのだ。
 その時、窟穴彦は振り返った。
(犬声(けんせい)? ここから、すぐ近くだ)
 宮中では珍しい、杉の木に手をかけ、暗闇の奥へと目を凝らした。
 この音は、人間、隼人の喉でも、出すことはできない。天然の獣の声。ごろごろと、喉の皮ごと震わせるような音。
 反射的に、足がそちらへと向かう。
(近い)
 風をさえぎり体を温めてくれた杉の木を離れ、五分ほど歩いた。窟穴彦が足を踏み出すたびに、ぷちぷちと乾いた音が高く鳴った。靴の裏が粘りつくような感触がある。
(落ち葉?)
 靴を持ち上げると、靴裏の溝を埋め尽くすように、虫や獣の黒い死骸がへばりついている。
 その時、初めて気がついた。暗い足下に広がっているのは、落ち葉ではなく、すべて黒ずんだ死骸の欠片だった。落ち窪んだ穴へ、知らず知らずのうちに足を踏み入れ、落下していくような感覚に、肌がざわざわと泡立った。
 この量の死骸を放散するのは、動物の仕業ではない。化け物か、それに近い人間か。
 うなり声のする方へと、足を進める。
 触れれば肌が切れそうな、背の高い草の中で、一匹の狼が、地面を掻きむしっていた。窟穴彦は、近くの木を背にして、草花の影に隠れた。
 狼のように見えるが、大蛇の体に似た紋様が、柔らかな毛皮にある。
(しっぽの先が、丸い。鼻も低い)
 尾が、蛇のような動きをしている。よく見れば、鼻も低い。狼や犬にしては、胴の太さと比較して、顔が小さすぎる。
(猫、山猫か?)
 それにしては、体が大きすぎる。外来種であったとしても、中学生ほどの体格のある猫など、存在しない。

 

(あの化け物は、一体なんだ)
 布を引き裂く、鈍い音がする。まさか人が組み敷かれているのかと、手元を覗く。
 その獣が一心に掻いているのは、赤い布に包まれた硝子瓶だった。
「見つけた」
 言葉らしき音が聞こえた。
(まさか、そんなわけはない)
 窟穴彦は首を振った。鉄独楽(コマ)が震えながら回るような音が、その獣の全身から漏れ出ている。
「広兄を食ったお前を、今度は、俺が食ってやるからな」
 その獣の口からは、確かに少年の声が響いていた。丸く大きな瞳が、にっこりと横に長く伸びた。錐状の牙から、細く唾液が垂れている。黒く闇が沈んだ鉤爪に掻かれ、硝子瓶の蓋が弾け飛んだ。顔を出したのは、鼠ほどの大きさの人為だった。

(つづく)

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