筑摩選書

卒業生は逸材か、それとも消耗品か

山本武利『陸軍中野学校 ――「秘密工作員」養成機関の実像』

PR「ちくま」に掲載された『陸軍中野学校』(山本武利著)に関する、 佐藤優さんのエッセイを公開します。

 陸軍中野学校に関しては、市川雷蔵主演の大映映画「陸軍中野学校」シリーズに代表されるロマン主義的解釈の作品が多い。これに対して、本書は、歴史学、政治学、社会学などの学際的な高度な学識と、山本武利氏の精力的な公文書収集(主に2007年に国立公文書館アジア歴史資料センターに所蔵されている文書)に基づいた、初めての中野学校と、同校に関連する陸軍のインテリジェンス活動に関する優れた研究書だ。研究書であるとともに広範な読者を想定して、読みやすい構成と文体で書かれている。
〈一九三八年四月に防諜研究所新設に関する命令に基づき(軍令なしに)「防諜研究所」が呱々の声をあげた(次頁の表参照)。その設立母体は登戸研究所と同じ陸軍省であったが、防諜研究所は兵務局の役割が大きかった。防諜研究所の創立期の資金は少ない兵務局の予算から捻出された。一九三九年三月に中野区囲町に移転した防諜研究所は同年五月、軍令で「後方勤務要員養成所」になり、さらに一九四〇年八月、陸軍中野学校令で「陸軍中野学校」に名称変更した。〉(44―45頁)
 従来、陸軍中野学校は後方勤務員養成所として出発したというのが通説だった。山本氏は丹念な公文書調査に基づき、後方勤務員養成所の前に防諜研究所という名称で開所したという事実をつきとめた。防諜だと(カウンター)インテリジェンス勤務に従事していることが明白だ。当該組織がインテリジェンス機関であることを秘匿するためにもこの名称は不適当だった。
 中野学校の教育や教材についても詳細な解説がなされている。国際基準に照らしても決して見劣りのしない教育が行われていた。興味深いのは、中野学校教育における天皇の位置づけだ。
〈創立時から末期まで天皇制の是非論議がクラス内では一貫して自由であったことに注目したい。一般の大学のゼミでは許されなかった論議が中野校内では許されたのは、学校当局が国体学などで天皇制支持への教育を日常的に行って、天皇批判の主張が学外に影響を与える危険性がないと判断したせいもあろう。天皇制論議を中野キャンパスという局限した空間で密封できるとの自信があったからこそ議論のための議論、つまり頭の体操であるブレーン・ストーミング、一種の兵棋演習として試行させたのである。〉(111頁)
 国体学教育を徹底した上で、天皇の地位を相対化させた結果、中野学校卒業生は国家と民族に絶対的価値を置くようになる。筋金入りのナショナリスト(国家主義者で民族主義者)を作り出したのだ。例えば、中野学校二俣分校出身の末次一郎氏(1922―2001年、元安全保障問題研究会代表)のようなロビイストが戦後、自民党や外務省に無視できない影響を与えたのも、ナショナリズムをイデオロギーとして巧みに活用したからと筆者は見ている。
 山本氏の中野学校に対する評価は厳しい。
〈結果的に中野学校では専門家が育たなかった。理論家も生まれなかった。固定したテーマを追究する人材、一定の地域に留まった諜報のベテランなどが、短期間での激しい人事異動と戦死者、行方不明者の増加で消耗させられた。敗戦と同時に学校は消滅、校友会は卒業生のみとなった。現在、存命者は数えるほどとなった。/テキストはもともとその教室かぎりであった。彼ら関係者は秘密保持に徹するあまり、研究あるいは諜報分析を行う余裕がなかった。自らの教育活動の成果をじっくり点検する時間がなかった。残ったものも終戦時に焼却された。教育研究遺産は乏しい。/(中略)卒業生は特務機関の末端将校として重宝がられたが、軍全体の工作での彼らの役割は小さく、インテリジェンス活動を主体的に動かせない消耗品で終わった。〉(264―265頁)
 確かに中野学校出身者は「消耗品」として利用されたが、これは大日本帝国の陸軍、海軍、外務省でインテリジェンスに従事したほとんどの人々と同じである。山本氏が提唱するように博物館を作り中野学校に関する資料を集約することが重要だ。

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