単行本

インテリジェンスの文法を知るために

『MI6秘録 イギリス秘密情報部1909―1949(上・下)』

 先進国のインテリジェンス機関で、もっとも厚い秘密のベールに閉ざされているのが、英国のSIS(秘密情報部、いわゆるMI6)だ。映画の007シリーズで有名になったMI6(陸軍情報本部第6課)は、SISの偽装名だ。外務省傘下に置かれているが、通常の外交活動から隔離された独立組織だ。本書は、二〇〇九年のSIS創設一〇〇周年の記念事業として刊行された。ジョン・ソワーズSIS長官が序文を寄せ、〈部外の学者に、これほどわれわれの公文書館の利用を許したのは初めてのことだ。当時の外務大臣はわれわれの計画を是認した。/なぜ一九〇九年から一九四九年に焦点を当てるのか? 第一に、SISの最初の四〇年間は、イギリス連合王国の存亡に関わる時期に当たっているからだ。第二に、一九四九年は、われわれの専門的な仕事が冷戦に関わる目標と手法に移行する分岐点といえる年だからだ。第三に、これがもっとも重要なのだが、一九四九年以降の歴史の詳細は、まだ公にするには危険すぎるからである。〉(上9頁)と述べる。ソワーズ長官の認識では、冷戦構造下のインテリジェンス活動は、基本的に現在も継続中なのである。それだから、一九四九年以降のSISの歴史を公開することはできない。言い換えると、SISの主要な標的がソ連崩壊後もロシアに置かれているということだ。本書で記されているエピソードでは、社会革命党左派のボリス・サヴィンコフ(ロープシンというペンネームを持ち、帝政ロシアでのテロ活動を描いた『蒼ざめた馬』が有名)に関するSISの工作に関する記述が興味深い。
 さらに、SISはソ連の脅威に気を取られすぎ、ナチスドイツの台頭に気づくのが遅かったことが浮き彫りになる。極東のSIS支部は、一九四一年十一月二十六日と十二月二日に日本が宣戦布告なしに攻撃してくる可能性について公電で情報を送り、本部も〈日本は早い時期にイギリスと合衆国に対する敵対行動を考えている。今はロシアを攻撃する意志はなく、南で行動を起こすだろう。ホノルルとアメリカ陸軍と海軍の情報部長たちに知らせたほうがいい〉(下278頁)と評価したが、この情報も評価も政策に生かされなかった。
「神は細部に宿る」と言うが、本書におけるSISの細部に関する記述が興味深い。例えば、SIS長官が使うインクの色についての以下の記述だ。〈長官が緑色のインクを使うというのもカミング(引用者註*マンスフィールド・カミング初代長官)から始まった慣行で、もっとも古い例は、一九一〇年五月九日の書類の手書きのメモに見られる。そもそも緑色で書くのは海軍の伝統で、部門やセクションの責任を負う将校が、上位の地位にあることを示すためにそれを使った。(中略)カミングは、べつの目的もあったとしても、ほかの海軍将校たちに対して独立性を主張しようとしてそれを採用したのかもしれない。外に向かって立場を主張するためだったと思われるのは、彼が一九一六年一月まで、日記にはかならずしも緑色のインクを使わなかったという事実によって確認できる。理由はなんであれ、長官の後継者たちは現代に至るまでこの慣行を続けている。〉(下452頁)。評者は、英国陸軍語学学校でロシア語を勉強した。軍隊の売店は、ナフィー(NAAFI)と呼ばれる。海軍、陸軍並びに空軍協会(The Navy, Army and Air Force Institutes)の略語だが、常に海軍がトップにくる。その海軍における上位の者が緑色のインクを使うという伝統を巧みに利用して、軍に対するインテリジェンス機関の優位性を、SIS長官はさりげなく主張しているのである。本書では、SISがヒュミント(人間によるインテリジェンス活動。協力者を養成して秘密情報を入手することが中心になる)を基本とする機関であることが強調されている。日本の対外インテリジェンス機関をつくる際のヒントが本書にたくさん記されている。

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