ちくま文庫

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岩田幸子『笛ふき天女』 阿川弘之先生による解説文

獅子文六ブームが止まらない!!! 3月刊行の短篇集『断髪女中 モダンガール篇』、『ロボッチイヌ モダンボーイ篇』に続いて、この4月は獅子文六夫人・岩田幸子さんによる自伝エッセイの刊行です。大人気作家の夫人として、岩田幸子さんが文章を書くきっかけを作った阿川弘之先生による本書解説文を公開します。

 大磯のおひいばあさんと書くと、曽祖母の話と間違へられさうだが、実は姫婆さんのつもりである。文六先生御在世なら、大先輩の奥様に畏れ多くてこんなことが言へた義理ではないのだけれど、御他界後十七年、前々からのお附合ひも合せれば約三十年、遠慮の垣根を低くして、つくづく観察すればするほど、此の人は明治上流社会のおてんばおひいさま、深窓の童女がそのまま無邪気に年輪を加へた、当今珍しい面白の嫗だと思ふやうになつた。天真爛漫にしてユーモラス、やや素頓狂な正義派、したがつて少々やんちやで我儘。その初めての御著作について、私如きが何故お披露目の口上を述べねばならぬかと言へば、「あとがき」に記されてゐるやうなことを数年前自ら口走つたせゐで致し方が無いけれど、本書御執筆中も、「わたくし、もういやンなつた。やめちまふ」とか、「お姫さま怒ると怖いんだから」とか、屡々勝手気儘を言ひ出して関係者一同をずゐぶん手古ずらせた。文六先生には「文六-勝手=0」といふ方程式があつたさうだが、幸子夫人の場合も、「無邪気」と「気儘」を差引いたらほぼゼロの方程式が成立つかも知れない。当方としては、お書きになるものの上に、其処のところが程よく滲み出て来ればと願つてゐた。
 しかし、文士文豪の上を行くと自称なさつた文六先生の未亡人と雖も、原稿用紙に向はれるのは今回が初めてで、やはり相当の緊張と気迷ひとがあつたらしい。その結果、あれは書けないこれは具合が悪いの不決断と、あれも書きたいこれも言ひ残したいの欲とが、いささかこんぐらかつてしまつた。もうちつと突つ込んで描いてあればと惜しまれる場面がある一方、お姫さまぶりの─、つまりあんまり面白くない和歌が処々方々にちりばめてあつたりして、読者諸賢、或はお眼だるく感じられるであらう。だが、その点少しく我慢して読み進めて頂くなら、やがて笛ふき天女は獅子文六なるよき伉儷(こうれい)を得てエロスの面でも開眼し、持ち前の気儘とユーモアを周囲に撒きこぼしながら妖しくもをかしき舞を舞ひ始める。文学のことなぞ何も分らぬ元姫さまと、当代切つての売れつ子作家とのユニークな再婚生活は、戦後復興期の日本の風俗として見てもまことに面白い。何しろお見合ひの話が起つたあとですら獅子文六にどんな作品があるか一切知らず、あすこがその家よと教へられた別荘風の竹垣の中で、何故かキンキラキンの唐獅子がどてらを着て散歩してゐるといふ妙な想像をしてゐたといふあたりが、おひいばあさま若かりし三十九歳の日の真骨頂なのである。御味読の上どうか天下に御喧伝を願ひたいと云爾(しかいふ)。

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