ちくま学芸文庫

教科書にして教科書以上

アントニー・D・スミス『ナショナリズムとは何か』

PR誌「ちくま」7月号より、大澤真幸氏による書評を公開します。『ナショナリズムとは何か』は、ナショナリズム論の大家による、学芸文庫訳し下ろしの入門書です。大澤氏が本書を「教科書にして教科書以上」と評する理由とは? ぜひ、ご一読ください。

 本書はナショナリズム論の最高の教科書である。と同時に、教科書以上の書物でもある。
 ナショナリズムとは、自分たちが「ネイション」を構成していると自認している集団に関して、その自治と統一とアイデンティティの確立・維持をめざすイデオロギー運動である。ではネイションとは何か。ネイションは次の条件を満たす共同体である。①郷土と認知された所に住んでいる。②誰もが知る神話、③共有された歴史、④独自の公共文化、⑤すべての成員に妥当する風習をもつ。そして⑥特定の名前で呼ばれている。
 冒頭で本書は最高の教科書だと述べた。その理由は、本書の中で、主要なすべてのパラダイムや理論が、実際の、あるいは(現実には生じていないが)潜在的な論争に沿うようなかたちでバランスよく紹介されているからだ。だが、本書は教科書以上のものにもなっている。アントニー・D・スミスの自説が、遠慮なく展開されているからだ。普通は、自説を前面に出すことと教科書に要請されるバランスとは、トレードオフの関係にある。しかし、本書はこの両立不可能な二つのことを同時に成し遂げている。なぜできたのか。それには理由がある。
 ナショナリズム論の今日における主流は、近代主義である。エスノ象徴主義を掲げるスミスは、これを否定する――と言うと強すぎるが批判するものである。だが、そもそも近代主義自体が、直接的で素朴な立場の否定の上に成り立っている。直接的で素朴な立場とは、本書では永続主義、原初主義と呼ばれているパラダイムである。このネイション観は、ナショナリスト自身の主観的な認識と合致している。ネイションは太古の昔からあったし、人間にとって自然で原初的なものだ、と。近代主義はこれを否定し、ネイションは近代の構築物だとする。エスノ象徴主義は、この近代主義を乗り越えようとしているのであって、素朴な立場からスタートすると否定の否定、弁証法的な総合にあたる。スミスが自説を前面に出すことで、同時に諸説を俯瞰することができたのはこのためである。
 エスノ象徴主義によれば、ネイションは、近代以前からの文化的モチーフを再解釈し、エトニーの絆を再建することで形成された。そう、ネイションの前にエトニーがあるのだ。エトニーとは、①郷土とつながっていて、②祖先についての誰もが知る神話、③共有された記憶、④若干の共有文化をもち、⑤(少なくとも)エリートの間に連帯感があり、そして⑥特定の名前で呼ばれている共同体である。ネイションの定義と比べればわかるように、エトニーはネイションの素である。エトニーを核にしていることに着眼すれば、ネイションは中世にも、いや古代にさえ存在していた(ユダヤ人や古代エジプト人を見よ)。
 スミスのエスノ象徴主義の強みは、グローバル化の時代にナショナリズムが強化されるのはなぜか、という謎に答えを持つことである。近代主義者がナショナリズムの原因と見なしたことはグローバル化で弱体化した。しかしナショナリズムは衰弱しない。だが、ナショナリズムがエトニーへの愛着に結びついているとすればどうか。エトニーはネイションに聖なる特性を宿らせうる。神によって選択された民族という確信、神聖な領土、黄金時代を含むエスノ・ヒストリー、名誉の死者達。これらの特性が住民に浸透しているところでは、グローバル化のコンテクストの中でナショナル・アイデンティティは持続する。
 要するに、ネイションとナショナリズムは宗教的な現象である。特に近代のナショナリズムは、近代化とともに排除され、抑圧された「宗教的なもの」が、世俗の政治の外観をともなって回帰してきたものである。ネイションへの愛の「宗教的な源泉」を見出した点にスミスの洞察がある。
 庄司信氏の翻訳はすばらしい。久しぶりに原文に立ち返らずとも問題なく読める、邦訳人文書に出会った。

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