資本主義の〈その先〉に

最終回 資本主義の思弁的同一性 part4

4 楽園=荒野

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「可能性」観念の極端な両義性

 ジョン・ロックは、こう言っている。「始めは、世界全体がアメリカであった」と(1)。ロックのこの言葉に示されるように、ヨーロッパから北米に渡った者にとって、「アメリカ」という土地は、世界と人間の始源状態と感じられた。実際には、アメリカにも先住民がいたのだから、つまりそこにはすでに世界も社会もあったのだから、これは、とんでもない認識だが、今はこの点は脇においておく。いずれにせよ、北米に入植した者たちは、ヨーロッパの伝統の束縛から自由に、原点から始めようとした――始めることができるとの強い実感をもっていた。この場合、ヨーロッパの伝統とは何か。端的に言えば、それは、カトリックのことである。言い換えれば、北米では、プロテスタントの論理が、カトリック的な残滓から完全に解放されて、純粋に作用した。

 われわれは、アメリカで、苦難の神義論が幸福の神義論へと反転したのはなぜか、を考えている。この反転が、プロテスタンティズムの倫理から資本主義の精神への変容の前兆、あるいはその変容の論理の原型になっているという見通しを立てることができるからだ。プロテスタンティズム、とりわけカルヴァン派の予定説こそ、苦難の神義論の究極のヴァージョンである。だが、苦難の神義論から幸福の神義論への転化は、プロテスタンティズムの単なる否定であるだけではなく、その内在的な純粋化の産物であるとも見なさなくてはならない。

 神義論は、信者たちの将来の救済に関係した教義であった。救済の確率、救済の可能性に、である。行為と救済の可能性との間に、どのような関係があるのか、が神義論の問いである。そこで、考察を推進させるための手がかりとして、「可能性」という観念に内在している分裂、この観念を反対方向に引き裂く二つの含みに注目しておこう。

 一方では、「可能性」は、空虚な可能性、ほとんど不可能なことを意味する語として用いられることがある。「それは、単に論理的な可能性に過ぎない」などと言われるときが、そうである。あるいは、試験に落ちたり、勝負に負けたりしたとき、「俺だって本気を出していれば…」等の言い訳を聞いたときに、われわれが感じるのが、空虚な可能性である。このときの「可能性」は、ほんとうはありえないこと、むしろ不可能なことを指している。

 しかし、他方で、逆に、「可能性」が、まさに現実性を、ただの現実以上に鬼気迫る現実性を意味することもある。たとえば、失敗や不注意によって、多大な犠牲を出してしまったとき、人は、「ああすればよかった」「ああすることもできたのに」と痛恨の思いを抱くときがある。自分を慰めようと、あるいは他人に取り繕おうと、「仕方がなかったたんだ」「こうするよりなかったのだ」と言っても、なお、「いやそうではない、お前はああすることもできたはずだ」という内面の囁きがどうしても消えなかったりする。このとき、可能性は、現実に起きたことよりももっと切迫した現実性をもっている。

 このように、可能性の観念には、二つの含みがある。どちらも、可能性という概念の本来的な意味を否定しているのだが、その否定の方向が逆である。「可能性」は、一方では不可能性を意味し、他方では、現実性を意味している。両方に引っ張られる形で、可能性としての可能性は消え去ってしまう。この二つの可能性の観念のそれぞれが、哲学的に記述されてもいる。ヘーゲルが、現実的なもの(だけ)が合理的であり、可能性がほんものかどうかということは結局現実化することによってしか確かめられない、と主張しているときには、前者の意味での可能性(ただ可能だと言っているだけのことは虚しく、ほんとうは可能ではないという趣旨)を主題化している。しかし、ヘーゲルは、現実的なものdas Wirklicheと実在するものdas Bestehendeとは異なるとも述べており、このとき、実在ではない現実的なものとして彼の念頭にあるのは、後者の、現実以上の現実と化した可能性であろう。

 「可能性」の観念の中に孕まれているこの両義性が、これから説明することの伏線になる。何が、空虚な可能性(事実上は不可能性であるような「可能性」)を、現実以上の現実としての可能性へと転化させるのか。こうした問いが、このあとの説明の理解を助けるだろう。

 

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