ちくま新書

路地と横丁の都市空間

4月の新刊、加藤政洋『大阪――都市の記憶を掘り起こす』の「序章(一部省略)」を公開いたします。 大阪の中のさまざまな街を歩き、文学作品を読みながら、歴史を掘り起こす本書。 序章では、下水処理場のポンプ室から大阪の「路地」について考察いたします。ぜひお読みください。

1 下水処理場の居住空間

†ポンプ室の上に
 大阪市西成区の西端、木津川に面して、津守下水処理場が立地する。この処理場は、昭
和6(1931)年から10年の歳月と「巨額」を投じて建設され、昭和15年4月に通水した、大阪市で最初の大型下水処理施設であった。当時、ニューヨークとシカゴに次ぐ規
模を誇ったというが(『大阪毎日新聞』昭和15年4月11日)、創業から半世紀以上の歳月を経るなかで施設は老朽化し、平成17(2005)年4月に新しいポンプ設備が通水したことで、初代の(旧第一)ポンプ室は65年間におよぶその役割をしずかに終えた。
 敷地面積約12万3000平方メートルを有する広大な処理場内のほぼ中央に、現在も旧第
一ポンプ室の建物がある(図0-1)。閉鎖されて久しいエントランスは、先太りの円柱
に、丸みを帯びた階上部分があいまってじつにモダーンだ。地上3階建てのポンプ室は、
地階から2階までが吹き抜けで、最下部に複数の巨大な揚水機が設置されている。ポンプ
の銘板には「昭和九年三月」とある。素人目には、処理能力はともかく、今すぐにでも稼
働できそうにみえた。

           図0-1 津守下水処理場旧第一ポンプ室

 興味を惹かれるのは、ポンプ室の階上にあたる3階部分である(図0-2)。階段をあ
がると、建物の端から端まで廊下が一直線に延びており、入ってすぐの右手には「事務
室」と表札のかかった大部屋が、それにつづく廊下の両側には、なんと14戸分もの戸別
の住居スペースがならんでいた。下水処理施設に働く人たちの(世帯向け)公舎であった
のだ。今風に言えば3LDKで、みごとな欄間に床の間など、なかなかに立派な住まいで
ある。廊下の格子窓には郵便ポストがかけられたままになっているなど、いまだ生活の痕
がうかがわれた(図0-3)。

           図0-2 3階の廊下

 

                             図0-3 玄関とポスト

 住戸ばかりではない。共同のトイレと風呂が両端に配置されている。まるで街場の銭湯
を彷彿とさせる脱衣場の棚(ロッカー、図0-4)、天井を見上げると、明かり採りの窓があった。
 この集合住宅をなによりも特徴づけているのは、各住戸の間に挿入された狭い通路の存在である(図0-5)。その突き当たりには(玄関とは別に)勝手口までつくられているのだ。どのような理念で設計されたのか、そもそも昭和戦前期の日本に、このような施設がほかにあったのか、類する施設をわたしは寡聞にして知らない。
 疑問はつきないまま、屋上へとあがる。東を見やると、上町台地に屹立する「あべのハルカス」が目に入った。この施設を見学したのは平成26(2014)年4月のことだから、開業してまだ間もないころだ。

            図0-4 風呂場のロッカー
                              図0-5 路地のような通路

†生活空間としての路地
 あらためてこの集合住宅の空間形態に着目してみるとき、特定の現実空間を指し示す、
あるひとつの語句が想起される。それは、近代大阪を根底から基礎づけていた空間という
べき、「路地」にほかならない。
 「路地」という言葉(の響き)から、どのような空間がイメージされるだろう。一般的には「建物と建物の間の狭い道路」を指すが、この語句には注意を要する。というのも、辞書で説明される意味、あるいは東京での使われ方と大阪や京都のそれとでは、まったく内容が異なるからだ。十代までの大半を大阪で過ごした小説家・宇野浩二(1891―1961)の言葉を借りるならば、路地を「大阪では『らうぢ』と云ひ……東京で云ふ路地とは意味が違ふ」のである(宇野浩二『大阪』)。東京では狭い道路(通路)を指すにすぎないのだが、大阪のそれはどう違うのだろうか? 
 表通りに面して町家が建ち並ぶと、ひとつのブロックの中央部には空地が発生する。そこに、表通りの家屋と家屋のあいだから通路を通すと、内部の空地にも家屋(裏長屋)を建設することが可能となる。「路地(ろぅじ)」とは、通路のみならず、内部の家屋までをも含めた空間を指す呼称なのであった。ヴァリエーションは多々あるけれども、今でも京都には、「ろぅじ」が数多く存在している。
 この「通路+家屋=生活空間」としての「路地」は、大阪の近代文学におけるモチーフ
ともなった。宇野自身は、小説『十軒路地』と、その「十軒路地」を再訪するエッセーを
著したし、宇野の大阪論から多大な影響を受けた織田作之助(おださくのすけ、1913―1947、以下「織田作」)もまた、「路地」を描いた作品をいくつも残している。
 織田作の代表的な作品『わが町』から、「路地」の描写を引用しておこう。
 
 路地は情けないくらい多く、その町にざっと七〔、〕八十もあろうか。
 いったいに貧乏人の町である。路地裏に住む家族の方が、表通りに住む家族の数より  も多いのだ。
 地蔵路地は∟の字に抜けられる八十軒長屋である。
 なか七軒挟んで凵の字に通ずる五十軒長屋は榎路地である。
 入口と出口が六つもある長屋もある。狸裏(たのき)といい、一軒の平家に四つの家族が同居しているのだ。
 銭湯日の丸湯と理髪店朝日軒の間の、せまくるしい路地を突き当たったところの空地を、凵の字に囲んで、七軒長屋があり、河童(がたろ)路地という。
                            (織田作之助『わが町』)

 彼の自伝的小説『青春の逆説』にも類似する描写はあるが、ここで注目しておきたいの
は、これらの路地が実在したかどうかといった創作上の問題ではなく、「~路地は……長
屋である」とか「~長屋は……路地である」という、「路地」と「長屋」の互換性である。
 織田作の叙景は、「抜けられる」かどうかさえわからない通路と、それに沿った裏長屋を一体的な生活空間として捉える概念が、まさに「路地(ろぅじ)」であったことを示しているのだ。

†再現された〈路地〉
 津守下水処理場の面する木津川とハルカスの立地する上町台地とに挟まれた空間の歴史
地理を想起するとき、ひとつの見立てが可能となるように思われる。旧第一ポンプ室上階
の集合住宅は、生活空間としての︿路地﹀を取り込んだものなのではないだろうか。
 つまり、住宅、共同便所、共同浴場をすぐれて抽象的にモデル化したひとつの空間パッ
ケージ、それがあの集合住宅だったのであり、まさに建築内部に〈路地〉を再現したと考
えられるのである。
 津守下水処理場の東側にひろがる市街地は、明治後期から大正前期にかけて実施された
「耕地整理事業」によって、見事に碁盤目状の土地空間が生産された一帯である。あぜ道
を直線化しただけの路幅四メートル未満の狭隘な街路網によって誕生した、一辺の長さが
一町(約110メートル)以上もある正方形の大きな区画は、自然発生的な市街地化の過程
で、必然的に、各々の街区内に袋小路や細街路を生み出してしまう(水内俊雄ほか『モダ
ン都市の系譜』)。たとえ、「いったいに貧乏人の町」ではなかったにせよ、零細な工場労働者や日雇い労働者の受け皿となった〈路地〉が、(現・国道26号から)木津川にかけて、分厚く展開されていた。
 こうした地理歴史的な条件・文脈のなかで生産された〈路地〉を理想的な空間として抽
象化(そして高級化)しつつ再現したのが、ポンプ室上階の集合住宅だったのだ。

2 空間表象としての〈横丁〉

〔webでは省略させていただきます〕

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