ちくまプリマー新書

虚構と非虚構の展開

千野帽子『物語は人生を救うのか』

PR誌「ちくま」から、作家の姫野カオルコさんによる 『物語は人生を救うのか』(千野帽子著、ちくまプリマー新書、5月刊)の書評を公開します。人は物語をどのように読むのか、読んでしまうのか?

「期待したわりに浅い本だった」と、ジョン・スチュアート・ミルの本を二冊読んだ二十八歳のAさんが言う本である。
「カジュアルな文体になったりシリアスな文体になったりして、統一がとれておらず読みにくい筆致」と、中居正広の長年のファンの五十二歳のBさんが言う本である。
「ちくまプリマー新書という教養書において、アダルトビデオなどの性産業を肯定しすぎているのはどうかと思う」と、令和女子学園高等部三年二組のCさんが言う本である。
 さて、右記八行は、この本でいう虚構である。AさんもBさんもCさんも架空の人物だし、Cさんの通っている高校も実在しない。しかし「AさんやBさんやCさんのような人が、こんなことを言いそうな本である」と書くなら非虚構である。
 この本とは、千野帽子『物語は人生を救うのか』。前著タイトルは『人はなぜ物語を求めるのか』だった。前著タイトルの答えが新著タイトルになっているとも言える。人は物語を求め、物語に囚われる。同時に、物語を求め、物語に救われもする。このことについて述べた本だ。
 ところが著者は前著で〈「人間がストーリーから逃れることができる(逃れるべきだ)と主張している」という根拠のない批判を受けた〉と言っている。前著も読んでいたので、「えっ、そんな人がいるの? どこをどう読んで?」とびっくりしたが、そういえば世の中には「どこをどう読むとそうなるの?」というイイガカラーが、たしかにいるのである。著者は〈根拠のない批判〉と紳士的に表現してあげているが、この類は批判とか反論ではなく、著者や他の読者に「ヘッ?」とまぬけな表情をさせてしまうしかない、意表をつく言いがかりであり、そういう言いがかりをつけてくる人をイイガカラーという。冒頭の虚構はその例である。新刊紹介の冒頭に虚構のイイガカラーを登場させて読者の目を引く物語を作ったのだった。「浅い」「読みにくい文体」、そして性的(だと当人が甚だ勝手に感じた)事項への拒絶表明は、イイガカラーのフェイバリットフレーズだ。
 たとえばCさんのような人は「物語」という語から「美智子様はお小さいころから御本を読み聞かせてもらっていらして、いろんな物語を読むことで、他人の痛みや悲しみを想像できるようになったというようなことを聞いたことがあるわ」と期待して(Cさん独自の期待をして)、この本を買い、読み進めたものの、期待に応えるようなことを著者はいっこうにしないので、Cさんには「してくれない」と感じられ、ハラがたって読書メーターに投稿するのである。
 若い人に向けて著者は、〈物語とはなにか、物語の構成要素であるストーリーにヒトはどれほど影響されるか、について〉語る。その語り口は、お兄さんの妹へのそれのようで、本題を語るために引用する本も、ヤングライフをエンジョイできるかもよ、という紹介もかねている。が、たとえばAさんのような人は、たまたま引用されていたミルの著作を、たまたま一冊以上読んでいた。このことは、Aさん独自の理由により、自信になっていた。そこでメンズ用の背が高くなる靴を買って得たレビュー権でAmazonの本レビューに、「ミルについての考察が浅い」と投稿する。実はこの本についてのレビューではなく、まだ二十八歳のAさんの、Aさんのための物語なのである。
 Bさんの場合は、中居正広に関するエピソードだけを、カジュアルな文体(正確には、ハンガリーの社会心理学者ハンキス・アグネスの主張などにふれることなく、というだけのことなのだが)で書いた本を望んでいるので、そうでない本は「読みにくい筆致」という結論を物語るのである。
 ことほどさように、物語というのは危険であり、同時に救いともなるが、人というものは物語を求める。だからインタレスティングなのである。このことについて語られてゆくこの本を読む人は、ぜひ語りの展開をたのしんでください。

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