ちくま学芸文庫

『日本大空襲』文庫版解説

7月刊のちくま学芸文庫『日本大空襲――本土制空基地隊員の日記』(原田良次著)より、吉田裕氏による文庫版解説を公開します。太平洋戦争当時、帝都防衛を担った兵士がひそかに書き綴っていた日記。その貴重な記録を、『日本軍兵士』の著者が読み解きます。

 この本の著者、原田良次氏は、1917(大正6)年に山形県鶴岡市に生まれた。福井高等工業学校(現、福井大学工学部)を卒業した後、陸軍第一航空教育隊に入隊し、1944(昭和19)年5月からは、飛行第五十三戦隊所属の下士官として松戸飛行場で戦闘
機「屠龍」の整備を担当した。著者は、同戦隊在隊中、所持していた文庫本の余白に日々の体験を書き留めており、それに戦後調査したことを加筆して本書をまとめている。日本本土防空戦に関する貴重な記録である。陸軍の第十飛行師団に属する飛行第五十三戦隊は、所沢で編成された後、松戸飛行場に進出し、夜間戦闘を主任務とした防空戦闘機部隊としてB29に対する迎撃戦に従事した。松戸飛行場は、調布・立川・柏飛行場とともに関東地方の防空にあたる「根拠飛行場」である。この戦隊に配備されていたのが、エンジン2機を搭載した二人乗りの二式複座戦闘機「屠龍」であり、B29による本土空襲が始まる1944年11月の時点で同戦隊は25機を保有していた。「屠龍」は機首に37ミリ機関砲1門、操縦席の後方に上向き35度の角度で20ミリ機関砲2門を装備している。この20ミリ機関砲はB29の下方に占位して、同航しながら機体下腹部に機関砲弾を撃ち込むためのものである。なお、「屠龍」に関しては渡辺洋二『双発戦闘機「屠龍」』(文春文庫、2008年)が、松戸飛行場に関しては、旧松戸飛行場を市域にかかえる千葉県鎌ヶ谷市の『鎌ヶ谷市史(下)』(2017年)が詳しい。後者の執筆を担当したのは栗田尚弥氏だが、栗田氏には松戸飛行場と飛行第五十三戦隊に関する数多くの論考がある。

 本書の内容に関しては、次の二点が重要だと思う。一つは戦争体験を日々、記録するという面で、著者がすぐれた資質を持っていたことである。エンジニアということも関係していると思うが、著者は、常に合理的、科学的思考に徹しながら、精神主義に支配された日本軍の現実を冷静に観察している。敗戦もかなり早い段階で予感していたようだ。「比較」という視座も一貫している。米軍機と日本軍機の性能の比較、撃墜されたB29の機体の中に残されていた兵士への配慮が行き届いた救命具に対する観察、徹底した砲爆撃の後に上陸してくる米軍の強襲上陸作戦能力に対する着眼など、下士官に与えられた限られた情報の中で、見るべきものをしっかりと見ているのが印象的である。もう一つは、どのような状況の下でも自分を見失わず、軍務に励みながらも兵士としてよりも人間として生きることを重視する姿勢で一貫していることである。戦争の渦中にありながら、日々の体験や感慨をこまめにメモし、手紙を書き、本を読み、ドイツ語を学習する。そこには人間として生きる場所と時間をどうしても確保したいという凜とした決意が感じられる。そして、そうした姿勢は、「軍人精神」を体現しているかのように振舞う陸軍士官学校出身の職業軍人や高級将校に対する批判的なまなざしにつながっている。

 内容の面では、戦時下の軍隊生活の苛酷さに関する生々しい記述が目を引く。米軍による本土空襲が始まると、戦闘機の整備を担当する著者は、部下とともに兵舎を離れて飛行場に急造された地下壕舎の中での生活を余儀なくされる。床のない地面の露出した壕舎であり、就寝時は軍服を着たままの雑魚寝である。さらに状況をいっそう悲惨なものとしたのは、昼夜逆転生活である。夜間戦闘を主任務とした飛行第五十三戦隊では、視力が暗闇に対応できるように、昼間に睡眠をとり、夜は訓練にあたるという変則的な生活をパイロットたちに強いた。このため「航空神経症(ノイローゼ)患者が頻発し」たという(山本茂男ほか『B29対陸軍戦闘隊』今日の話題社、1985年)。整備兵の生活もこれに合わせた逆転生活となった。午後6時の起床とともに「朝食」をとり、真夜中の「昼食」をはさんで整備作業に従事し、明け方に「夕食」をとるという生活である。昼間に迎撃のため戦闘機が出撃することもあり、一睡もとらないまま一日が終わる日もあった。壕舎での食生活も飢餓線上にあった。パイロットたちには十分な食事が保障されていたが、一般の兵士たちは軍から給与される食糧だけでは最低限の食生活すら維持することができず、農家から私費で農産物を買い、時には盗んで飢えをしのいでいる。著者のメモには、ストーブ用の薪として兵士たちが村の神社の鳥居を盗んできた事実が記されているが、もはや軍隊としての態をなしていないというほかはない。さらに、日本陸軍の防空戦闘機隊が新鋭大型爆撃機B29に対抗することができない現実も本書から浮かび上がってくる。機体や装備の不具合という点だけからみても次のような事態が記録されている。すなわち、寒冷時には始動の際に負荷がかかるためか、「屠龍」のエンジンの故障が相次ぐ、高高度で使用する酸素ボンベが故障したため呼吸ができなくなったパイロットが殉職する、「屠龍」が装備している大型の37ミリ砲は発射の際の反動が大きく発射後は機体各部に「弛緩や変調」をきたす、また、高高度では凍結するなど、機関砲の故障が絶えない、戦闘機の補充がないため整備兵は現有機の修理や整備に全力をあげるが、必要な部品がないため戦闘機の稼働率が著しく低下する、夜間作業に必要不可欠な懐中電灯の電池の補充がないため作業が遅滞する、などなどである。

 本書の背景となっている日本本土防空戦についても簡単に見ておきたい。大型の最新鋭爆撃機、B29による日本本土空襲が始まるのは、米軍のサイパン島への上陸作戦が開始された1944年6月15日のことである。この時は、中国の成都にある基地を発進したB29が北九州を爆撃した。その後、7月7日に同島の守備隊が全滅しマリアナ諸島の全域が米軍の支配下に入ると、米軍はここにB29用の巨大な基地群を建設する。マリアナ基地群を発進したB29が、日本本土(東京)を初空襲するのは11月24日のことであり、以後は同基地のB29部隊が日本本土空襲の主役となった。マリアナ諸島を基地としたB29による本土空襲は次の三期に区分することができる(奥住喜重『中小都市空襲』三省堂選書、1988年)。第一期は1944年11月24日から1945年3月4日までの時期である。この時期、B29は編隊を組んで高高度から目標上空に進入し、目視による昼間爆撃を行った。航空機工場などを最優先目標とする精密爆撃であり、主に使用した爆弾は5000ポンドの高性能爆弾である。爆撃にレーダーを使用しなかったのは、高高度からのレーダー照準爆撃の精度がまだ高くなかったからである。この第一期の末期にあたる45年2月16、17日には、空母から発進した米軍の艦載機が関東地方に来襲し、第十飛行師団は大きな損害を蒙った。以後、陸軍は戦力温存のため米軍戦闘機に対する迎撃戦を抑制する方針をとった。第二期は1945年3月10日から同年6月15日までの時期である。この時期のB29は、編隊を組まず単機ずつ低高度で目標上空に進入し、夜間爆撃を実施した。焼夷弾を使った都市部に対する無差別絨毯爆撃がこの時期の特徴である。レーダーの精度があがる低高度からの爆撃のため、低くたれこめた雲の上からなどのレーダー照準爆撃が実施されている。3月10日の東京大空襲がこの期を象徴する爆撃である。また、45年3月に硫黄島の日本軍守備隊が全滅すると、同島を基地とする米軍の最新鋭戦闘機P51がB29の護衛に当たるようになった。P51の日本本土への初来襲は4月7日のことだが、性能の著しく劣る「屠龍」はP51に手も足も出なかった。第三期は6月17日から8月15日までである。すでに第二期までに東京などの大都市は壊滅しており、爆撃目標が中小都市に拡大された時期である。爆撃の態様は第二期とほとんど変わらない。

 日本側の防空部隊についても見ておこう。陸海軍間の協定によって、陸軍が重要都市などの防空を、海軍が軍港などの防空を担当することになっていたため、本土防空の中心は陸軍だった。しかし、陸軍は攻勢作戦を重視し防空戦を軽視したため、防空体制の整備は大きく立ち遅れることになる。防空戦闘機に関して言えば、1万メートルの高高度で空中戦を展開できるだけの性能を持った高高度戦闘機を保有していなかったことがあげられる。高高度での機動に不可欠な排気タービン過給機(エンジンの出力を高めるための装置)の開発に失敗したことが原因である。もう一つは戦闘機に装備するレーダーの実用化に失敗したことである。このため夜間戦闘の際に、パイロットは照空灯(サーチライト)が捉えた目標のB29を目視で攻撃するしかなかった。また、天候不良で上空が雲で遮られている時には照空灯は全く役に立たなかった。本書でもこうした事情は生々しく記録されている。なお、レーダーの開発と実用化という面で日本軍が後れをとったことはよく知られている。それでも本土空襲の段階では「警戒機乙」と呼ばれたレーダーが八丈島や太平洋沿岸の各地に配備されていた。しかし、最大で約200キロ先の目標を探知できる性能しかなかったし(ただし飛行高度の測定はできない)、基地を発進した「屠龍」が1万メートル上空に達するまでに約1時間もかかった。そのため、日本の防空戦闘機隊は、B29が目標に到達する前に攻撃を加えるだけの時間的余裕がないという苦しい戦いを強いられることになる。

 ちなみに、マリアナを基地としたB29の喪失機数(戦闘だけでなく事故や故障による喪失を含む)は、第一期が75機、第二期が194機、第三期が49機、合計318機である(小山仁示訳『米軍資料 日本空襲の全容』東方出版、1995年)。日本側発表よりはるかに少ないが、それでもかなりの喪失数である。それにはいくつもの原因があるが、サイパン島と東京までの距離が約2200キロもあったことが大きい。長い航続距離を誇るB29にとっても本土空襲はその行動圏内ぎりぎりの作戦行動であり、北海道はその行動圏外にあった。B29による空襲の「北限」は青森市である。また、日本の高空を吹くジェット・ストリームも大きな障害となった。この強い気流に逆らって飛行すれば風に流されるだけでなく燃料の消費量が増大する。逆に気流に乗ってしまえば速度が出すぎて爆撃の際に正確な照準が困難になる。強風を避けるために高度を下げれば、日本軍の戦闘機部隊や高射砲部隊の反撃を受ける。つまりB29がその高高度性能を十分に発揮できる高度1万メートルでの行動が著しく制約されたのである。さらに大都市の場合は照空灯による照空区域がかなり広かったことも重要である。東京の場合、「立川から千葉まで、約100キロに及ぶ区域に照空部隊が配置されていた」ため、悪天候でなければ、照空灯の光が捉えたB29を目視で攻撃することが可能だった。一方、照空部隊の配備がほとんどない地方都市の場合は、夜間戦闘機による攻撃はほとんど不可能となる(前掲『B29対陸軍戦闘隊』)。中小都市を爆撃目標にした第三期に入るとB29の喪失数が激減しているのは、このことが影響している。

 著者は、日本陸軍による防空戦闘の中でも、B29に体当たり攻撃をする「震天制空隊」の編成にとりわけ大きな怒りを感じていた。高高度性能ではB29に太刀打ちできないため、「屠龍」などから機関砲・防弾鋼板などの装備を撤去し機体の重量を軽くする。その改造機で体当たりをする一種の特攻隊である。著者は本書の執筆を終えたころから「震天制空隊」の調査と関係者に対する取材を始め、8年の間に約130人の関係者から取材をしたという。その成果は『帝都防空戦記』(図書出版社、1981年)にまとめられている。この戦記を読むと、原田氏の原点が改めて確認できる。無謀な作戦を強行した軍幹部に対する激しい怒りと、苛酷な状況の中で、自らの人生を「納得しがたいままに納得させて」死んでいった若者たちに対する深い哀惜の念である。なお、著者の没年は2009年である。

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