筑摩選書

哲学と共通了解

哲学は、「根源的真理」を問うものではない。その最大の目的は、一人ひとりの生き方と社会のあり方をよりよくすることであり、その方法は、プラトンが描くソクラテスにはじまり、フッサールの現象学にて真価を発揮した「対話」である。そうして哲学は、お互いが納得しうる「共通了解」をつくりだす――この10月に刊行された『哲学は対話する』(筑摩選書)は、「対話としての哲学」を思考してきた西研氏の十年来の研究の集大成。ここに「はじめに」を公開いたします。

真理を語る哲学(独断論)と、それを相対化する哲学(相対主義)
 現代哲学の状況に眼を向けてみよう。20世紀後半の哲学の主流は、「真なる認識」を否定する相対主義だった。そしてとくに、プラトン、ヘーゲル、フッサールは、ほんらい不可能な「真なる認識」を語る悪しき形而上学とされた。
 そこには学問的・認識論的な理由もあるが、それだけではなく、冷戦という時代背景がある。ソ連とアメリカは、それぞれ「我こそは正義だ」と主張し、世界を二分して争った。そのような時代には、正義や真理を語ることは、他者を排斥して自分たちを正当化する悪しき「党派性」であるとみなされた。そしてこの党派的な真理や正義を批判し相対化することが、哲学の課題とされた(フランスのポスト・モダン哲学や、アメリカのプラグマティズムから出てきたリチャード・ローティはその典型である)。
 しかしこのような「相対化する」哲学は、マルクス主義のように真理や正義を名乗る強力な思想や人種主義のような本質主義(人種や性によって優越が決定されているという思想)を攻撃することはできたが、強力な思想が滅びてしまうとその弱点があらわになっていく。
 まず、相対化がいきつくと「すべてが人それぞれ」になる。ナショナリストも人権論者も、右翼も左翼もすべて対等な世界像である、ということになり、「何をもって信頼しうる考えとみなせるか」について答えがないことになる。「人間性」の認識についても、「よりよい社会とは何か」についても、根拠を出し合って認識を共有することじたいが不可能だと感じられる。それはつまり、社会に矛盾が大きくなったとき、自分たちで認識を共有し解決していくことが不可能だということを意味するのである。
 じつは、哲学の歴史をみると、すでに古代ギリシアにおいて、真理を語る「独断論」と、それを相対化しようとする「相対主義」との対立が認められる。
 哲学はもともと、世界の根源的な真理をつきとめようとするところからはじまった。そして、「根源的な真理をわがものにした」と信じ、それを語る人たちも出てくる。これを「独断論」と呼ぼう。すると他方で、この独断論の権力性を解体しようとして、「真理などはなく、認識はもともと相対的でしかない」と語る人たちが出てくる。これが「相対主義・懐疑主義」である。
 そして、この独断論と相対主義との対立を越えようとするところに、ソクラテスの対話の哲学が生まれている。そしてフッサール現象学もまた――しばしば根源的な真理を語ろうとする哲学だと誤解されているが――根源的な真理を廃棄したうえで、それでも皆が納得しうる共通了解の形成が可能であることを主張した哲学なのである。

共通了解はなぜ大切か
 とはいえ、哲学対話において共通了解が成り立つことは信じられない、と思う人がいるかもしれない。一つ、例を挙げてみよう。
 「幸福」は哲学の重要なテーマの一つでありつづけてきた。このテーマについて「真の幸福とは何か」と問うならば、共通の答えは存在しえない。何を真実の幸福とみなすかということは、個々人の自由に属する領域だからである。
 しかしここで、問い方を変えてみる。「人はどういうときに、自分を幸福だと感じるのか」という問いのもとで、それぞれが自分の幸福体験を出しあってみる。すると、それらは決してバラバラではないことがわかってくる。つまり幸福体験には、いくつかの典型的なもの(共通了解となるもの)が指摘できるのである。
 たとえば、「親しい人が自分のことをほんとうに大切だと思ってくれている、と実感できたとき」。これは、これまで私の哲学のワークショップに参加したほとんどの人が挙げてくれたものである。また、仕事の場面での幸福体験を挙げる人もいる。たとえば、「困難な仕事にチームであたり、互いに協力しあいながらそれをやり遂げることができたとき」などである。
 このように「問い方」を工夫するならば、それぞれが自分自身の体験をもとに探究でき、そこから皆が納得できる共通了解をつくっていくことができる(さらに、単なる快と幸福の意味のちがいを焦点化してみると、幸福の意味がより明確になってくる)。
 このようにして共通了解をつくれるということは、個々人の生き方や、社会のあり方についても大きな可能性を拓く。
 たとえば、教育。「教育はなぜ・どのような点で大切なのか」ということについて、人びと(生徒、教員、親たち、大人たち)が考え合い、多くの人が納得できる共通了解に至り、社会的にも共有していくことができるとする。もしそうなれば、教育の仕組みをより好ましい方向に動かすことができるだけでなく、生徒も親も「勉強しないと負け組になってしまう」という消極的な理由ではなく、学ぶということにより積極的な意義を見出すことができるかもしれない。
 日本社会は急速に「あたりまえの生き方」が崩れた社会だ、と私はいった。そのことは、学ぶこと、職をもつこと、家庭をもつこと、趣味をもつこと、地域や社会の一員としてあること、あらゆる事柄において積極的な意義が失われ不明確になっている、ということを意味する。だからこそ、語りあい考えあうことを通じて、「そうか、こういうことなのだ」という深い納得が得られるならば、それは個々人に生きる希望をもたらし、社会の制度をより好ましくつくっていくことにもつながるだろう。
 あらゆることが不明確になったいまだからこそ、哲学の営みは必要である。そして、これを育てるためには、「感度や意見が多様であってよい領域」と「共有しうる答えがある領域」とを区別でき、共通了解に向けて探究する方法がある、ということを示さなくてはならない。