この本で私が示したいのは、次のことだ。
1.哲学は「根源的真理を問うもの」ではなく、「根源的真理をめざす悪しき哲学(形而上学)を解体しようとするもの」でもない。哲学の最大の課題は、ものごとの「よさ」(なぜよいのか・どういう点でよいのか)を問うことにある。(哲学の課題)
2.そうすることで、一人ひとりの生き方と、社会のあり方とを「よりよき」ものにしようと配慮することが、哲学の目的である。(哲学の目的)
3.哲学は、人それぞれの答えしか出ないものではない。適切な問い方をすることで、人びとが納得しうる答え(共通了解)をつくっていくことが可能である。(哲学の方法)
つまり、哲学の課題と目的についての明確なイメージと、さらにそのために皆が納得できる共通了解をつくる方法があることを、この本で示したい。そして、多くの市民が哲学の対話に参加し、それを楽しんでもらえるようになってほしいと、私は願っている。
そのさい、なぜ共通了解を強調するのか、といえば、共通了解をつくることに対する警戒感が、哲学対話に参加する人びとのなかに残っているからである。しかし私は、共通了解を放棄するならば、哲学対話は十分に意義あるものにはならないと考えている。そう考える理由を、この「はじめに」で述べておきたい。
なぜ「哲学対話」が求められるのか
近年いろいろな地域に「哲学カフェ」がつくられ、教育現場で哲学対話を試みるところも出てきている。私自身も、大学の授業や企業研修、カルチャーセンターなどで哲学対話を主催してきた。
多くの哲学カフェでは、日常生活のなかから具体的なテーマを拾っている(ネット上では「自慢したい」「逃げたい」「責任」などが見つかった)。そして、哲学の専門的な知識は求めずどんな人でも参加できる、ということも共通している。集まってきた人たちは、そのテーマと自分の人生経験とを関わらせながら、それぞれの思いや考えを出しあっていくことになる。
なぜいま、哲学対話が求められているのだろうか。まず、他の人たちと出会ってその思いや考えを聴いてみたい、そして自分の考えも口にして反応をもらいたい、ということがある。さらに、こうした交流を通じて自分が生きるうえでのヒントや軸となるものを得たい、とか、地域や社会のあり方を考えたい、ということがあるだろう。
このような気持ちの背景には、私たちの社会で「あたりまえの生き方」が崩れてしまっている、ということがある。
――何をめがけて生きていけばいいのか、わからない。
――他者とどうつきあい、どう関わりあいながら生きていけばいいのか、わからない。
――地域や社会(国家)とどうつきあえばいいのか、わからない。
このような「わからなさ」のなかで、それぞれの人は、他者と交流するなかで何かをつかみたいと願っているのだと思う。