ちくま文庫

『父が子に語る近現代史』解説――出口治明

小島毅著『父が子に語る近現代史』(ちくま文庫)

「日本の明日を担う若い世代が歴史の面白さや大切さを学ぶには格好の1冊だ」――凝り固まった歴史観をほぐす本書に、APU(立命館アジア太平洋大学)学長・出口治明さんより熱いエールをいただきました。

 歴史に対する著者と僕の立ち位置は、一見したところ、かなり異なっているようだ。著者が「歴史は基本的に文学だと考えている」のに対し、僕は「歴史は科学だと主張」しているからだ。しかし、それにもかかわらず僕が本書に親近感を覚えるのは、読んでいて何より面白いからであり、歴史認識などで共通する部分がたくさんあるからだ。そもそも、いかなる本であれ、読んで面白くなければ意味がないと僕は思っている。ところで、共通する部分について、いくつか例をあげてみよう。
 著者はネルーの『父が子に語る世界歴史』を意識して執筆したと記しているが、僕が浅学非才の身を省みず無鉄砲にも通史を書き続けているのは(『人類5000年史(Ⅰ、Ⅱ)』『0から学ぶ「日本史」講義(古代篇、中世篇)』)やはりネルーに触発されてのことだ。「日本の歴史と伝統はすばらしい」と自画自賛する言説は、バブル破綻後わが国の成長が止まり、その一方で近隣アジア諸国が著しい経済成長を遂げる中で生じた不安を癒すはたらきを果たしているように思える、と著者は指摘する。僕は、著者と同じく歴史は文学であるというルカーチの「一般に祖国愛が防衛的であるのに対し、大衆迎合的なナショナリズムは攻撃的である(中略)ナショナリズムは劣等感と不義の関係を結んだ祖国愛である」(『歴史学の将来』)というくだりを直ちに連想した。
 本書は『父が子に語る日本史』の続編であり近現代史を扱っているが、近代の始まりを松平定信の寛政の改革前後に置いている。朱子学に通暁していた定信は「大政委任論」というきれいに整理された政治思想を主張した。将軍は天皇から政治を委任されて行っているのだから諸大名はじめ全国の人々は将軍の命令を聞かなければならないというものだ。おそらく徳川家康や家光はこのようなきれいな政治思想を想像だにしなかったに違いない。武断政治を行っていた彼らは、もっとシンプルに、実力で天下を獲とったのだと思っていたはずだ。それが文治政治に転じると、どうしてもきれいで整合的な理屈が欲しくなる。しかし、首尾一貫した理屈は時として、現実の政治がその理屈にしばられることになる。大政委任論がまさにそうで、権威の源泉を天皇からの委任に置いたことにより、結果として明治維新時の大政奉還に道を開くことになった。その意味でも、近代の始点を定信の時代に想定することは一つの卓見であると思われる。
 靖国問題。靖国神社をめぐる問題は本質的には日本国憲法が定める政教分離原則の問題だと思料するが、本書は、吉田松陰、久坂玄瑞、坂本龍馬の3人を祀られた人々、井伊直弼、近藤勇、篠田儀三郎(白虎隊)の3人を祀られぬ人々(西郷隆盛もそうである)として対比させ、読者に問題の在り処を考えさせるスタイルをとっている。なお龍馬については、実は何もしていないと指摘しているが同感だ。本当に龍馬が薩長同盟の功労者であれば、西郷や大久保利通、木戸孝允らが維新が成就した後に彼の功績を讃えたはずだがそうした資料は全く残されていないのである。龍馬が有名になったのは司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』の影響であることに疑いはない。いわゆる「司馬史観」については、『坂の上の雲』でも何人かの学者によってそのゆがみが指摘されている。著者は、「司馬が嫌いで彼の歴史認識を批判するのではありません。そうではなく、彼の史観が世間で一人歩きし、現在の学界の研究状況とは明らかに異なる認識がいまなお幅を利かしていることに対して、警鐘を鳴らしている」と述べているがその通りであろう。僕は司馬の文体がけっこう好きで著作の大半は読んでいるが、司馬の著作は最高のエンターテインメントであって歴史とは無縁だと考えている。史実とフィクション(エンターテインメント)を峻別することは基本中の基本だが、「司馬史観」の蔓延はゆがみを指摘しないわが国の学者、学界の体質にも拠るのではないか。これは、呉座勇一が『陰謀の日本中世史』で正面から提起した問題でもある。
 よく使われる「自虐史観」という決め台詞がある。著者は「それはそういう人たち自身の、自信の無さを示しているのではないでしょうか」と指摘した上で、その歴史認識を「自慰史観」と呼ぶ。一種の宗教だと。なるほど、対語としては面白い。僕は歴史は科学だと思っている。即ち、過去に起こった出来事をあらゆる科学的な手法を使って再現しよう、少しでもファクトに近づこうとする試みが歴史なのだ。だとすると、自虐も自慰もあったものではない。もちろん、著者の「目をそむけるな、耳にしたくない話でも、おとなは若者に包み隠さず過去の事実を知らせる義務がある」という主張には100%賛同する。なぜなら(再びルカーチを引こう)「自分が生まれる前のことについて無知でいることは、ずっと子供のままでいることだ」から。
 著者は柳田國男を引いて一般民衆を「常民」と呼ぶが、明治時代における国家神道の創造や古代の皇族の英雄化には、常民も主体的に関わってきたと指摘する。橿原神宮、近江神宮、平安神宮、吉野神宮、明治神宮は民衆の古来の信仰とは別に、権力側の意向で人為的に設けられたものではあるが、地元の人たちをはじめとする常民も多数積極的に協力していた。日本武尊、神功皇后、聖徳太子の3人の業績伝承が歴史的事実でないことは言うまでもないが、これら天皇や皇族の神格化(再編成)は政府側の一方的な押しつけによるのではなく「常民」の側にも進んでそれを受け入れようとする精神構造があったのである。「吉野朝」(南朝正統論)の問題もその典型であり、こうした精神構造は江戸時代後半になってから培われ、歴史的に形成されてきたと著者は主張する。僕はそこに朱子学浸透の影を見るが、だからこそ本書はペリー来航からではなく寛政期から語りはじめる必要があったのだ。この政府と「常民」の共犯関係は、第二次世界大戦の戦争責任を考える上でも極めて示唆に富む。軍部や財閥、「革新官僚」たちが悪人で、善良な一般国民は彼らに騙されていただけなのだろうか。歴史はわかりやすい図式で見てはいけないのだ。
 本書は教育の重要性についても「実学偏重は危ない」など本質的、今日的な問題提起を行っており、日本の明日を担う若い世代が歴史の面白さや大切さを学ぶには格好の1冊だと考える。ぜひとも手に取って読んでみてほしい。最後に1点だけ著者に苦言を呈したい。著者は「科学たろうとすればするほど、歴史はつまらなくなる」と述べているが、では、リチャード・ドーキンスの著作は、科学そのものだと思うが、なぜあれほどまでに面白いのだろうか。僕は科学としての歴史もドーキンスのようにいくらでも面白く書けるはずだと信じている。

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