ちくまプリマー新書

差別を考えるとはどういうことか
『他者を感じる社会学』第一章より

他者を理解したい、つながりたいと思ったときに必然的に生じる摩擦熱、これが差別の正体だ。差別を考えることは、社会を考えること。「差別はいけない」と断じて終えるのでなく、その内実をつぶさに見つめてみたい。

他者理解の過程で生じる差別

あらためてまとめておきます。差別とは、他者を「遠ざけ」「貶める」営みです。それは自分が生きている日常生活世界から具体的な他者やある人々を徹底して「外していく」行為です。具体的にはそれは、自分の利益、より正確に言えば、自分が利益だと考えていることのために、他者がもつ現実の「ちがい」や勝手につくりあげた想像上の「ちがい」に否定的な意味をこめ、その「ちがい」をもとにして、当該の他者やある人々を排除し、攻撃する行為です。

ところで、差別は人間の「心の問題」なのでしょうか。世の中には、心の問題として差別を心理学的に説明する仕方がみられます。たとえばある人が差別をしたとして、原因は、ある人が囚われてしまっていた人間や社会からの強烈な疎外感であり、心理的な不充足感が原因ではないだろうか、疎外感や不充足感が一転して攻撃性に変化するのだと。少し言い方を変えれば、ある人が生きていく過程でさまざまな体験をした結果、「心の闇」が生じ、まさにその「闇」が差別という行為を引きおこす源となっているのだと。差別に限らず、いじめやさまざまな問題行動を「心の問題」として、心理学的に説明する仕方は、いかにももっともらしく思えるかもしれません。ただ私は、こうした説明には、大きな問題が潜んでいると考えています。

先にヘイトスピーチのところで語ったように、多くの私たちは、差別をできるだけ限られた特別な事柄として整理し、自らの日常生活世界から、なんとかして切り離したい、距離をとっておきたいと思ってしまいます。「ヘイトスピーチは「在日」へのひどい差別だ。差別はいけないことぐらいわかりきっているし、自分は差別などするはずがない」という、まさに私への“信奉”が、そう思わせるのでしょう。

このような自分自身への“信奉”が生きているとき、私たちは心理学的な説明を動員して、特別な心の状態こそ差別を生むという結論に誘われてしまうのではないでしょうか。

差別は、自分自身が囚われることがない稀で特別な心理や感情が原因であり、特別な心理や感情を持ちやすい人や、またそうした心理や感情に囚われた人が起こしてしまう行為なのだ。だから差別は「特別な人」がする行為であり、「そうでない私」には、関係のない出来事だと。そして、こうした了解の仕方は、自分から差別というテーマ自体を切り離すことができるため、魅力的であり、私たちは、なかなか抗いがたいものではないでしょうか。

さてこうした了解の仕方を認めたうえで、いったん脇に置いておきましょう。

本書では、異なった見方で差別を考えます。いわばより社会学的現象として、日常生活世界に生起する“よく見られる”現象、私事(自分事)として、差別を捉えなおすのです。私たちが、日常を生きていくとき、さまざまな他者との出会いや他者とのつながりは不可避です。ただ、その出会いやつながりは、必ずしも常に支障なく円滑に達成されるものではありません。LINEでのちょっとした言い方で相手から深刻な誤解を受けたり、スタンプの使い方一つで関係が気まずくなったりと、親密な友人との関係ですら、どこかで滞ったり、つながるうえで“さまざまなトラブル”がおきてしまう波乱含みの営みといえるでしょう。

例えばこう考えるとき、差別とは、どこか特別な場所で起こるのではなく、私たちが他者を理解しよう、他者とつながろうとする過程で、なかば必然的に生じてしまう現象となります。差別は決して、見ないふり考えないふりをして、自分とは関係のない出来事だと回避できるものでもないのです。

いわば、差別は、他者理解――あるいは他者理解の難しさ――という深遠なコミュニケーションの過程で生じてしまう“必然”であり、私たちが他者を理解しようとし、他者と何かを共有しよう、伝え合おうとするときに生じてしまう“摩擦熱”のようなものです。

人々が他者に対してある社会的カテゴリーをあてはめることで、他者の個別具体的な生それ自体を理解する回路を遮断し、他者を忌避、排除する行為の総体をいう。あてはめるカテゴリ│には圧倒的なマイナスに意味が縦貫しており、それをあてはめる他者や他者が生きる現実を映し出すのではなく、さまざまにマイナスなかたちで「しるしづける」。差別現象を考えるうえで重要なことは、日常生活のなかで普段いかにこうした歪められたカテゴリーの侵入を許してしまっているのかということである。確信犯的な強烈な差別行為から、同情、哀れみに内包されるなかば無意識的なゆるやかな排除まで、現象として差別は多様であるが、「歪められたカテゴリーを無批判的に受容すること」が差別につながる私たちの根本的な日常的実践といえる。そして、この実践と向き合い詳細に解読し、解体、変革していくのもまた、私たちの日常的実践なのである。
(項目「差別」、秋元美世・芝野松次郎・森本佳樹・大島巌・藤村正之・山県文治編『現代社会福祉辞典』有斐閣、二〇〇三年)

手元にある社会福祉辞典の「差別」項目を抜き出してみました。実はこれは以前、編者から依頼を受け、私が執筆しました。

私がこの項目で強調したかったこと。それは「差別現象の多様性」であり「「歪められたカテゴリーを無批判的に受容すること」が差別につながる私たちの根本的な日常的実践」であり、「この実践と向き合い詳細に解読し、解体、変革していくのもまた、私たちの日常的実践」だ、ということです。

私たちの多くは、「確信犯的な」差別などしたくないし、行おうとはしないでしょう。でも多様な差別現象は、まさに私たちの「日常」で起こり、私たちは、その「日常」を生きていると言えるのです。

差別をどう考えていけばいいのか、さらに語っていきましょう。
 

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