単行本

天民が漱石を救った

PR誌「ちくま」7月号より坪内祐三さんの特別寄稿を掲載します。

 今年(二〇一六年)の春に出た岩波文庫の『漱石追想』(十川信介編)に目を通していたら、ある“新事実”を知らされ驚いた。

 このボリュームある一冊には寺田寅彦や安倍能成や久米正雄や松岡譲ら漱石の弟子たち、馬場孤蝶や戸川秋骨や平田禿木ら同時代に活躍した作家たち、中村武羅夫や滝田樗陰といった編集者、さらには肉親たちの「追想」が収められていて、そこで語られているエピソードは既になじみのものだが、その中で貴重なのは森成麟造の「漱石さんの思出」だ。

 森成は長与胃腸病院に勤務していた医師で、明治四十三(一九一〇)年八月、漱石が胃潰瘍の悪化で伊豆の修善寺で倒れた時に、同地に担当医として派遣された人間だ。

 いわゆる“修善寺の大患”であるが、浩瀚な漱石伝である『夏目漱石』で小宮豊隆はこう書いている。

 十八日には松根東洋城が電話で鏡子のところと『東京朝日』とに急を報じた。社からは社員の坂元雪鳥と胃腸病院の森成麟造とを、即日立たせて、見舞によこした。

 荒正人による詳細きわまりない漱石年表(集英社刊)によればこんな具合である。

 松根東洋城は、鏡子と東京朝日新聞社に電話で急を報じる。その前に東京朝日新聞社では、すでに長与胃腸病院から電話連絡があり、手配している。渋川柳次郎(玄耳)は、池辺吉太郎(三山)の指示で午前中十一時坂元三郎(雪鳥)宅に電話する。坂元三郎は、東京朝日新聞社に行き、費用七十円を預り、長与胃腸病院に赴き医師森成麟造に逢い事情を伝え、新橋停車場に向う。

 ところが、森成麟造の「漱石さんの思出」(初出は『日本医事新報』第九百二十七号・昭和十五年六月刊)によるとディテールは異なっているのだ。

 同文章の書き出しを引く。

 八月十七日病院の応接室で東京朝日新聞社会記者松崎天民と印刷した名刺を前にして若い洋服の紳士は強度の近眼鏡を掛け乍ら猶お且つ目をテーブルに接着しつつ縷々陳述された。その要点は夏目先生が修善寺温泉へ転地療養中痼疾再発し苦悩を訴えて居らるるから誰か即刻往診して呉れと東京朝日新聞社の名に於ての依頼である。

 大物主義の人たちなら漱石の名前しか眼中にないから松崎天民という四文字をスルーしてしまうだろう。

 しかし『探訪記者松崎天民』の著者である私はそこに釘付けされてしまったのだ。そしてとても驚いたのだ。

 漱石の容態はかなり深刻だったから、ここで天民の素速い初動がなければ最悪のケースが起きていたかも知れない。つまり天民は漱石の恩人だったのだ。その恩人のことを漱石の研究者たちは見逃してしまう。

 そして私は、そうか、そうだったのか、と思った。

『探訪記者松崎天民』の中に「最愛の妻の死と同僚夏目漱石の優しさ」という章がある。

 大正二年十一月十一日、天民の妻が腸チフスで急逝する。天民のもとには息子が三人残された。

 その天民の所に、朝日新聞の同僚だった夏目漱石からとても心のこもった手紙が届き、さらにしばらくして、三人の息子あてに、「回転活動写真機と自動車運動と積木道具」の三種が送られて来た。

 それを私は漱石の「優しさ」ととらえていたけれど、そのお見舞い状及び送り物には修善寺の件のお礼の意味も込められていたのだろう。

 つまり天民と漱石は私が考えていた以上に深い関係だったのだ。

(つぼうち・ゆうぞう 評論家)

2016年7月29日更新

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