単行本

「私」を取り巻く水分は、母なる海ときれいに溶け合わない
山家望『birth』書評

第37回太宰治賞受賞作「birth」の単行本刊行に際して、小説家の乗代雄介さんに書評をご執筆いただきました。

 語り手の「私」(市ノ瀬ひかる)は、自分と同じ生年月日かつ下の名前をもつ松島ひかるの母子手帳を拾い、それを届けてやろうと奮闘する中で、自分について思いを巡らせることになる。例えば、母子手帳を拾った場、後には松島ひかるとの接触の場となる根岸森林公園の一等馬見所跡のそばで、周囲の景色を見て過去を思う。

「フェンスの向こう側はアメリカ人たちの居住区だった。家の前にはよく整えられた庭があり、滑らかな芝の上に窓から零れるあたたかな灯りが模様をつくっていた。/それがどんなふうにしてだったのかは知らないが、とにかく私が私の母親の手から施設に預けられたとき、私は淋しかっただろうかと考えた」

 根岸森林公園は実在し、米軍住宅が並ぶエリアも残っているが、二〇一五年に全居住者の退居が完了している。この物語は母子手帳の日付から平成から令和になろうという時期だと知れるので、実際は灯りのともった窓などありえない。まして馬見所跡付近のフェンス奥は共用施設エリアで家はない。さらに、もともと「蓑沢口」から入った「私」は「来た道を戻った」際に「かつてここは競馬場で、筋骨逞しい馬たちが競い合って駆け抜けたのだと思った」ようだが、横浜競馬場の馬が走っていたのは「私」のいる方とは反対側だ。

 こんなことは、別に間違いをあげつらおうとして書くのではない。小説が語りたいことに合わせて都合よく現実を曲げたところで何の問題もないのだ。作者が意識的かどうかすら関係がない。小説にそう書かれた以上は何かあると考えるだけだ。

 では、「私」の世界と語りの関係はどうなっているのか。はっきり言って「私」の視野は狭い。狭いから、電車の広告を囲んでいるアルミフレームに髪の毛が挟まるなどの細部は光を放つけれど、基本的に「私」は外からの影響を受けず、独り合点して物語る。上司や、これも実在する放送ライブラリーの職員になろうとする男も「私」を変えない。彼らを「やがてそういう人がいたことさえも忘れてしまうのっぺらぼうの人たち」だと勝手に語る「私」は、しかしそこに母親や松島ひかるを含めたくはないようだ。

 作中、「私」をしつこく取り巻くものがある。「ビニールボートの上に寝転がり一人潮に任せて漂っているような感覚」、「重苦しい湿気が面の強さを持って芝生にのしかかっているような感じ」、「川沿いの道はなんだか湿ったような感じ」、「屋台のラーメン屋を営んでいる男の人のドキュメンタリー」、仕事を訊ねられて「水の研究」と答える、のど飴をなめて口をうるおす、麦茶にこだわる、徐々に悪化していく喉の痛みで唾を飲み込めなくなる、松島ひかるが糸に「飲み物を飲ませ」ている姿を見て物思いに耽る。

 あらゆるところに水分がある。良きにつけ悪しきにつけなのは、それが自分にとって何を意味するか「私」が測りかねているからだろう。根岸森林公園のそばには、荒井由実の「海を見ていた午後」で歌われたレストラン、ドルフィンがある。高層の建物が増えて「ソーダ水の中を貨物船がとおる」景色はもう見られないように、「私」を取り巻く水分は、母なる海ときれいに溶け合わない。

 それに一石を投じられるのは、同じ名、生年月日でありながら「私」にはいない子を持つ松島ひかるだけだということを「私」は察している。その顛末は書かないが、それとは別に、「私」に対して実力行使に出る他者が突然に現れる。彼は「私」に、喉に膿がたまっていると告げる。海でなく膿。膿のほとんどは、白血球に含まれる好中球が菌に対処したあとの死体である。現実を曲げた都合のいい記述も、他者への態度も独り合点も、全ては自分を守るために膿んでしまった語りで、読者はそれを通した世界を目にしていたのだ。小説としてもこれしかないような荒療治を終え、「私」は「点滴のしずく」を見上げ、再び生まれようとする。いいことだと思う。

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