筑摩選書

『女教師たちの世界一周』という長旅を終えて

筑摩選書『女教師たちの世界一周』は、19世紀に男子並み女子教育を実現し、大英帝国に”進んだ女子教育”を広めようとした女教師たちの歩みを描いた書籍です。本書には、著者の堀内真由美さんの中学校教師としての経験、その後のイギリス留学、カリブ海地域でのフィールドワークの成果が詰まっています。刊行に寄せて、堀内さんにエッセイをご執筆いただきました。

 いきなりで恐縮だが、私はアナウンサーになりたかった。実家にいた頃は、入浴時に発生練習(「ア・エ・イ・ウ・エ・オ・ア・オ」以下、ワ行まで続く例のもの)を大音量で繰り返していたし、大学に入ってからは、父に「必ずアナウンサーになりますから」と頼んで月謝を出してもらい、アナウンス学校にも通った。在校時には、大阪ミナミのアメリカ村「三角公園」で、芸人さんとコンビを組んで「ビンゴゲーム」の司会をしたこともあったっけ。
 父が死に際、「そういえば、ワシが月謝出したあの学校の勉強は、何ぞ役に立ったんかいな?」と三十代半ばにさしかかろうとする娘に尋ねたくなったのも、今では分かる気がする。あれほど一直線に目指していたアナウンサーへの熱気が、肝心の就活時期にはしぼんでしまったかと思うと、娘は唐突に大学院に進むと言って家を出て行った。なんでも「女権拡大」を勉強するらしい。だが、修士課程を奨学金とアルバイトで終えて息もつかぬ間に、今度は縁もゆかりもない神奈川県で中学教師をすると言う。
 一九二六年に生まれ、二〇年ほど前に亡くなった父は、中学生になった娘に「将来は自分で食べていけるようにしなさいや」と言う以外ほとんど何のアドバイスもしない、私にとってはユルい「おっちゃん」だった。だが、当時の「女子アナブーム」に乗れるような見目麗しさはなく、さりとて学者として立って行けるほど学才に恵まれてもいない娘の将来設計を、不安な気持ちで見つめていただろう。だから他県とはいえ、公立学校の教員採用試験に受かったと聞いて、さぞかし胸をなでおろしたことだろう。ところが娘は、せっかく手に入れた「食べていける術」をわずか五年で手放してしまう。今度は単身イギリスに行くというではないか。 
 なぜ、せっかく受かった教師を辞めてまでイギリスに行く必要があるのか。私が親なら娘にそう尋ねるだろう。だが父は一言も訊かなかった。そして「応援してまっせ」と週イチで手紙をくれ、母と一緒にはるばる会いにも来てくれた。修士論文を提出し、帰国までの期間をちょっとのんびり旅でもしようとした頃、そんな彼の定期便が途切れた。娘に内緒で肺がんの手術を受けていたのだ。急ぎ帰国し、それから数年間、できるだけ父のそばにいた。ところが娘は、不可解にも、近隣の大学で、また院生になるという。そうこうしているうちに肺がんが再発した。一切の積極的治療を拒んで、彼はホスピス病棟の一室に横たわり、冒頭のような質問を、「社会人院生」と近頃ではそう呼ぶらしい娘に投げかけたのだった。
 父が星になってから月日は経ち、中年になった娘は、大きなリュックを担いで一人ドミニカやらジャマイカやら、彼の脳内地図でもすぐには位置関係の描けないような場所に、飛行機を三回も四回も乗り継いで出かけて行くようになった。日本の女教師が、イギリス女教師たちの海をまたいだ活動の歴史に触れ、活動場所の一つであった英領西インドに行ってみたいと思いたち、そこで見聞きしたことを書き連ねていったその先に、『女教師たちの世界一周』がある。
 この本を父にも読んでもらいたかったなあと思う娘がいる。中学教師、イギリス留学、西インド諸島訪問、それらの経験のいずれかでも欠けたら、この本はたぶん書けなかった。あ、もちろん、あの学校に入ったことも。お父さん、見知らぬ国や地域で女教師たちの物語を訪ねて話を聞くとき、あそこで身に着けた「しゃべくり」のスキルは役立ちましたよ。アナウンス学校の月謝、元をとれましたよ(たぶん)。安心してちょうだい。ありがとうね。

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