『ジンセイハ、オンガクデアル』

見よ、これがブレイディみかこだ
『ジンセイハ、オンガクデアル――LIFE IS MUSIC』書評

本書について、「稀有な作品の誕生に立ち会ったと思った」という、辻山良雄さんは記す。

 この『ジンセイハ、オンガクデアル――LIFE IS MUSIC』は、「ああ、ブレイディみかこって、〈ぼくはイエロー〉の人だよね……」といった理解の方にこそ、読んでいただきたい一冊である。彼女はいかにして、皆がよく知る〈ブレイディみかこ〉になったのか。二作目の著作を基に再編集された本書には、自分の書くべきものと出合った、作家としてのよろこびが充溢している。
 ブレイディさんの書くイギリス社会――揺るぎなき階級が存在し、街のいたるところに格差や人種の違いからくる対立、暴力が吹き溜まっている――は、大英博物館やアフタヌーンティーに代表される、ガイドブックで語られがちなイギリスとは異なるものだ。しかしそのざらざらとした手触りが、パンクロックに魅せられ、ひとり日本からやって来た、作家の言葉を鍛え上げたのかもしれない。
 見てごらん、これがリアルな世界だよ、、、、、、、、、、、
 実際本書での、「クソの如き」現実に触発されたブレイディさんの文章は、水を得た魚のようにノリにノッている。自然に湧き出たイディオムを、前のめりに、順番ごと叩きこんでいく感じ。身の回りの生活に根を張り、アンダークラスの反逆ののろしを上げた、稀有な作品の誕生に立ち会ったと思った。
 そうした彼女の英国が目に見える形で凝縮されているのが、第一章で語られた「底辺託児所」と呼ばれた場所である。そこでブレイディさんが出会った子どもたちは、各人じゅうぶんに個性的。その性格は〈凶暴〉〈凶悪〉であり、それぞれの暴力性も、髪を摑む、物を投げるといったオーソドックス(?)なものから、さかんに「F言葉」を叫ぶ卑語系、逆さ吊りの人形めがけて玩具のナイフを連投するゴシック系など多岐にわたる。子どもの世界とはいえ、人種差別や格差に満ちた、小さなイギリス社会とでも呼べそうな場所なのだ。
 そうしたパワフルな「底辺託児所」の子どもたちは、ある階級の人びとにとっては認めたくない、インビジブルな存在なのかもしれないが、〈いる〉という確かな存在感に満ちている。
「ぼくたちはここにいる」
 そうした自らを訴える切実な声が、ページのそこかしこから聞こえてくる。その声を前にすれば、それを聞かなかったことにするなどもはや不可能だ。
「底辺託児所」で働きはじめたころ、この仕事は向かないから辞めさせてくれと言ったブレイディさんに対し、託児所の責任者が答えた台詞が印象に残った。
「あなたのような人は、うちのような託児所には向いているわ。だって、あなたは子どもというものに対して全然夢を抱いていないんですもの」
 夢を抱いていないとは、他人に対して先入観がないということでもある。
 そのことはこの託児所に預けられた子どもたちとどこか似ており、彼らも「人間はこうでなければいけない」から気持ちよいほど解放されていた。だからこそ子どもたちは、〈凶悪〉ではあっても来るものは拒まず、時に大人が驚くほど「誰でも受け入れられる度量を持っている」。生傷は絶えないかもしれないが、「底辺託児所」には、お互いを一人の人間と認めた、ほんものの感情のぶつけ合いが存在するように思えた。
 それは、臭いものにはすぐ蓋をする、日本の社会では見られない光景である。底辺、底辺といいながらも、そこは血の通ったコミュニケーションが存在する、人間的であかるい、、、、場所なのだ。

 本書の第二章は、英国の音楽や映画を対象としたレビューである。そう書くと、何か違うジャンルの文章を、無理に一冊にまとめた本のように思われるかもしれないが、実はこの第二章と「底辺託児所」の第一章とは、密接に絡みあっている。

「底辺託児所」も、ブレイディさんが並々ならぬ愛情を抱く『This Is England』シリーズも多くのバンドも、すべて同じ英国アンダークラスの日常から生まれた、時代の落とし子のような存在だ。「底辺託児所」時代のエッセイにも、その多くに音楽や映画への言及・引用がなされているが、そうしたカルチャーがいかにブレイディさんの心身、ものの見方にまで染み込んでいるのか、重ね合わせて読むとよくわかる。
 文章を書くには、その人が世界を見るための、「ホーム」と呼べる場所が必要だ。たとえそれがどこであっても、人生のある時期自らの存在を賭し、体ごと深く交わった場所にこそ、真にオリジナルな言葉は生まれてくるのである。

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