ちくま文庫

解説『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』
斎藤美奈子

阿久悠、山本リンダ、ピンク・レディー、西城秀樹、松本隆、太田裕美、桑田佳祐……メディアの発信力が加速度的に巨大化するなか、老若男女が自然と口ずさむことのできた歌謡曲の数々。その時代の「思想」ともいうべき楽曲たちが日本社会に映したものとは? 6月の文庫化から多数の注目を集めている衝撃のジェンダー×音楽論・舌津智之『どうにもとまらない歌謡曲 七〇年代のジェンダー』、斎藤美奈子さんによる文庫解説を特別公開いたします!

 

 一九七〇年代に中学・高校・大学時代をすごした私は、本書に登場する歌のほとんどすべてをリアルタイムで聴いた世代で、それぞれの楽曲や歌詞はもちろん、当時の街の情景から、推し(なんて言葉は当時はなかったけれど)のアイドルについて同級生らと交わした会話まで、鮮明に思い出すことができる。
 とはいえそれは五〇年も前の話で、読者の中には「まだ生まれてませんでした」「昭和なんて明治時代といっしょですよね」な方も多いだろう。
 この際、認識を改めていただきたい。二一世紀の今日から振り返っても、七〇年代は新旧の価値観が交錯する、まさに過渡期の時代だった。
 とりわけ男女観に関しては、一九七五年以前と以後で、くっきり線引きができるほどだ。本書でも述べられているように、一九七〇年は田中美津らによる日本のウーマンリブが立ち上がった「第二波フェミニズム元年」だった。当初は奇異な目で見られていたリブはしかし、国際婦人年(一九七五年)を経て七〇年代後半に入ると、新しく創刊された女性誌の後押しなどもあって大衆化が進み、「自立する女」「翔んでる女」が流行語になった。今日でいう「わきまえない女」の原型である。
 ポップスの歴史から見ても、七〇年代はレコードのマーケットが飛躍的に拡大した黄金時代だった。アイドルスターが次々に登場し、七一年にデビューした小柳ルミ子・天地真理・南沙織は「新三人娘」と、七一〜七二年にデビューした郷ひろみ・西城秀樹・野口五郎は「新御三家」と、七二〜七三年にデビューした山口百恵・桜田淳子・森昌子は「花の中三トリオ」と呼ばれてヒットを連発した。
 自ら作詞作曲して自ら歌う「シンガー&ソングライター」が一世を風靡したのも七〇年代で、吉田拓郎、井上陽水、かぐや姫(南こうせつ)、グレープ(さだまさし)、アリス(谷村新司)などのヒットメーカーは枚挙にいとまがない。いまや大御所の荒井(松任谷)由実や中島みゆきがデビューしたのも七〇年代なら、サザンオールスターズ(桑田佳祐)が登場したのも七〇年代だ。
 ついでにいうと文学の世界でも、中上健次(『十九歳の地図』)、村上龍(『限りなく透明に近いブルー』)、橋本治(『桃尻娘』)、村上春樹(『風の歌を聴け』)といった戦後生まれの作家が続々とデビューし、旋風を巻き起こした。

 そのように考えると、「七〇年代のジェンダー」という副題のついた本書『どうにもとまらない歌謡曲』がいかに戦略的かつ先駆的な本であるかが理解できるだろう。本書が出版された二〇〇二年は(フェミニズム批評の蓄積はそれなりにあったものの)まだジェンダー論の黎明期で、「生物学的な性」とは区別された「社会的な性」を意味する「ジェンダー」という言葉自体、今日ほど一般的ではなかったのだ。
「愛だの恋だの」を歌う歌謡曲は、そもそもジェンダー論のまたとない素材である。
 読者は冒頭から目が覚めるような思いを味わうはずだ。
 並みいる結婚賛歌(「瀬戸の花嫁」「花嫁」から「結婚しようよ」「てんとう虫のサンバ」にいたるまで)を軸にしながら、その陰画としての同棲ソング(「神田川」「同棲時代」など)が必ず過去形で歌われていること、さらに婚外恋愛=不倫ソング(「許されない愛」「絶体絶命」など)が必ず破綻に至ることを突き止め、結婚に対する当時の強迫観念がどれほど強かったかを指摘する(「1 愛があるから大丈夫なの?」)。何気なく聞き流していたヒットソングの歌詞から、ジェンダー史の核心に迫るこんな結論が導けるなんて、いったい誰が想像しただろう。
 そう、批評を読む楽しみは、なんといっても「発見」にある。
 流行歌(に限らずすべての歌)は耳から入る情報であるため、歌われている物語内容を、じつは正確に把握していない場合が多い。内容を把握するには文字化された歌詞を「読む」ことが必要で、読んだだけでも大きな発見があったりする。尾崎紀世彦が高らかに歌い上げる「また逢う日まで」が先駆的な同棲解消ソングだったなんてことも、歌詞を(あるいは本書を)読まなければ気がつかなかっただろう。
 少々脱線すると、ひところ結婚披露宴でよく歌われた山口百恵の「いい日旅立ち」について、作詞作曲の谷村新司が「みなさん、歌詞をよく読んでください」と語るのを聞いたことがある。よく読めば、これは披露宴にはそぐわない別れの歌なのだ。
 とはいえ、誤読も拡大解釈も、批評の醍醐味。
 「発見」以上にエクサイティングなのは「価値観の反転」に遭遇する瞬間だ。その意味で、批評のダイナミズムが炸裂するのは第二部だろう。
 とりわけ「ジェンダー交差歌唱」について論じた章(「4 うぶな聴き手がいけないの」)において、宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」と殿さまキングス「なみだの操」を比較したくだりは、本書の白眉ではないかと思う。
 思わぬ大ヒットを飛ばしたとはいえ、ぴんからトリオも殿さまキングスも、パロディに近い「ド演歌」を歌うコミックバンド的な位置づけで、どうせ保守的な女性像を歌っているに違いないと私もじつは思い込んでいた。事実、「あなただけよと すがって 泣いた」「うぶな私が いけないの」(1)という自虐的なフレーズから入る「女のみち」は、出だしを聴く限り保守的な「すがる女」の歌である。
 ところがこれが後半で反転する。「二度としないわ 恋なんか」という恋愛からの決別で終わる「女のみち」は解釈次第で〈あんな人にすべてを捧げたりした、うぶな私が愚かだったの。こんな下らないものが女のみちだと言うのなら、男の人に恋するなんてバカげたこと、もうご免被りたいわ〉というラジカル・フェミニストのメッセージソングに見えるという。ええーっ、ほんと!?
 著者の言葉を借りれば、ここから浮かび上がるのは「保守派のように見えながらも実は反逆者」としての新たな顔だ。その点、同じド演歌でも「泣かずに待ちます いつまでも 女だから」(2)で終わる「なみだの操」に新しいメッセージ性はない。
  この分析に感動した私は一時、演歌の歌詞にハマったほどだった。
 たとえば「私バカよね おバカさんよね」ではじまる細川たかし「心のこり」は、自虐的なフレーズから入る点で、やはり一見保守的な歌である。ところが後半、この女性は「秋風が吹く港の町を 船が出てゆくように」という抒情的な情景をはさんで「私も旅に出るわ」(3)という決意を語る。「うしろ指をさされても、あんな人の命をかけて耐えてきた私がバカだったわ。でも、もう私は目覚めたの。だからひとり旅立つの、明日の朝早く」。これは男を捨てて自立への道を選んだ女の歌なのだ。
 その点、美川憲一「さそり座の女」は、「いいえ私はさそり座の女」ではじまる一見強い女の歌に見えるが、「思いこんだら(略)いのちがけよ」「地獄のはてまでついて行く」(4)と男を脅し、終わりそうな恋に固執している点で、古い女の枠から出ていない。
 というように、優れた批評には読む人の批評心をくすぐる「喚起力」がある。「発見」「価値観の反転」に次ぐ、本書の三つめの魅力といえるだろう。
 以上のほかにも、本書には「発見」や「反転」が満載だ。
 七〇年代最強のアイドルとして言及されることの多い山口百恵ではなく桜田淳子に、やはり七〇年代を代表するアイドルグループ・キャンディーズではなく、「お子さま向けのアイドル」の印象が強かったピンク・レディーに多くのページを割いているのは、著者の「あまのじゃく趣味」にニヤリとすると同時に、歌詞論が拓く世界の広さ、奥行きの深さを感じさせる。その過程で、阿久悠の先取性を指摘したのも、当時はキワモノ扱いだった山本リンダの再評価を迫ったのも、重要な成果といえるだろう。

 巻頭で著者も〈言語に関わるどんな文化を考えてみても、歌謡曲ほど広く深い浸透力をもつものはない〉と述べている通り、流行歌の歌詞は、文芸批評の対象としても、文学史にとってもじつは重要なジャンルだと私は思っている。
 しかし、今日に至るまで「歌詞論」はジャンルとしても確立されていないし、本書をしのぐ本格的な歌詞論もじつは出現していない(年代ごとのヒットソングをたどる歌謡曲史のような本はあるけれど)。なぜだろう。
 理由のひとつはテクニカルな問題で、著作権が実務的または心理的な壁となって立ちはだかっていることが考えられる。批評にとって引用は必要不可欠で、著作権法上も引用は認められているのだが、文芸作品などと違って、歌詞の場合は引用と引用以外の二次使用の線引きが難しい。そのため出版や発表に二の足を踏む向きもあるのではないかと想像される。この壁を突破するには個別の努力と時間が必要だろう。
 近年は音楽マーケットの変容も無視できない。かつてのようにテレビやラジオを通して新曲が流され、レコード(CD)の売上げ枚数がヒットの指標になり、みんなが同じ曲を聞いて同じ歌を歌う文化は二一世紀に入って急激にすたれた。世代や趣向によって聞く音楽が細分化され、CMやドラマとタイアップした一部の曲を除けば、誰もが口ずさめるようなヒットソングは生まれにくくなった。
 こうした事情を考えると、歌詞論の前途は厳しそうである。
 しかし半面、インターネットの普及で、過去のヒットソングにはむしろアクセスしやすくなった。本書に登場する曲の多くはサブスクリプションや配信サービスで「聴く」ことができるし、検索をかければ歌詞を「読む」こともできる。最新のヒット曲と「ナツメロ」の間に、もはやかつてのような断絶は存在しない。
 二〇〇二年に出版された本書が二〇年ぶりに文庫化される意味のひとつも、そこに見出すことができる。ここで論じられている曲を、即座に聴いたり読んだりできる環境が整ったことで、「七〇年代にはまだ生まれてませんでした」な読者にも、この本は数々の発見や興奮をもたらすにちがいない。
 歌詞論には厳しい時代といったけれども、こうなると八〇年代以降のヒットソングも気になってくる。舌津智之先生には「ぜひ続編を」と望みたくなるけれど、それは他力本願にすぎるだろう。私たちの前にはその後の数十年分の歌詞が、ほぼ手つかずの状態で放置され、誰かの手で発見され、分析される日を待っている。
 すでに素晴らしいお手本が提示されているのである。私としては『どうにもとまらない歌謡曲』に触発され、批評心を喚起された読者の中から、次なるチャレンジングな書き手が出現することを願っている。

 

引用曲:歌手名「タイトル」作詞者・作曲者:(1)宮史郎とぴんからトリオ「女のみち」宮史郎・並木ひろし/(2)殿さまキングス「なみだの操」/(3)細川たかし「心のこり」なかにし礼・中村泰士/(4)美川憲一「さそり座の女」斉藤律子・中川博之