ちくまプリマー新書

キリスト教徒たちは何を「信じ」ているのか?
『宗教を「信じる」とはどういうことか』より本文の一部を公開!

非科学的な神という存在をなぜ信じるのか。神がいるならなぜ悪があるのか。宗教は平和をもたらすのか。素朴な疑問をもとに宗教と人間の関係を解き明かす1冊『宗教を「信じる」とはどういうことか』より本文の一部を公開します。

キリスト教徒は、本当に聖書を「信じ」ているのか

 キリスト教信仰においては、まず聖書の権威を「信じ」て、そしてそこに書かれている内容も正しいと「信じ」ることが大前提となります。しかし、キリスト教徒は聖書に書かれていることを本当にすべて「信じ」ているのでしょうか。実際の信徒たちを見ていると、はっきり言って、そのようには見えません。

 例えば、新約聖書の「コリントの信徒への手紙一」の一一章には、「男はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶるなら、自分の頭を侮辱することになります。女はだれでも祈ったり、預言したりする際に、頭に物をかぶらないなら、その頭を侮辱することになります」と書かれています。聖書にそう書かれているのなら、実際の礼拝では男性は頭に何もかぶらず、女性は頭に何かをかぶっていそうなものです。しかし現在は、一部の人たちを除いて、ほとんどの女性は礼拝中に何もかぶっていません。逆に男性の聖職者で、頭に大きな帽子のようなものをかぶる伝統のある教派もあります。これは、いったいどういうことなのでしょうか。また、聖書のこの箇所のすぐ後には、「男は長い髪が恥であるのに対し、女は長い髪が誉れとなる」と続いています。そう書かれているのなら、キリスト教徒の男性は髪を短くし、女性は髪を伸ばしそうなものですが、実際には、牧師や信徒にも長髪の男性はいますし、ショートヘアの女性もいます。これも、いったいどういうことなのでしょうか。

 つまり信徒たちは、口には出しませんが、内心では「聖書といえども、この記述はさすがにどうでもいい」と判断しているということになりそうです。信仰の基準である聖書においても、「まともにとりあわなくていい部分」、すなわち「信じなくていい部分」がある、ということになります。髪の毛とかぶりものに関するこの箇所については、もちろん聖書註解書を開けば、いろいろな解説がなされています。この記述の背後には、当時の身なりに関する習俗や慣習があるわけです。しかし、いずれにしても、聖書のなかで、現代人がちゃんと「信じ」て実践すべき記述と、適当に読み流していい記述(あまり「信じ」なくていい記述)とは、どうやって区別するのかが、どうもよくわかりません。

 こんなことを言うと、些末な部分であげ足を取るな、と言われてしまうでしょうか。では、人生においてもっと大事な「お金」に関する記述を見てみましょう。

お金についての教えも「信じ」ていない?

 福音書のなかに、イエスがある人から「永遠の命を得るには、どんな善いことをすればいいのでしょうか」と尋ねられるシーンがあります。イエスは、彼の問いに対して、「殺すな、姦淫(かんいん)するな、盗むな、偽証するな、父母を敬え、また、隣人を自分のように愛しなさい」といった掟を言います。すると男は、そうした掟はずっと守っています、と答えました。するとイエスは、「完全になりたいのなら、行って持ち物を売り払い、貧しい人々に施しなさい」と言い、そして「金持ちが神の国に入るよりも、らくだが針の穴を通る方がまだ易しい」と付け加えたと伝えられています。これは非常に有名な箇所なので、キリスト教徒でこの話を知らない人はいません。

 しかし、ヨーロッパの博物館や美術館などに行きますと、金銀宝石で作られた豪華な十字架や、同じく金銀宝石で装飾されたきらびやかな聖書カバーなどを目にします。ものすごく高価なものであろうそれらは、文化的な遺産としては貴重なものでしょう。しかし、そうした物品が、イエスの思想や言動とはまったく異質なものであることは確かだと思います。では、そうした豪華絢爛な十字架や聖書カバーをありがたがったり、あるいは莫大なお金を投入して巨大な大聖堂を建てたりした人たちは、当然キリスト教徒だったはずですが、彼らは聖書のこの箇所を「信じ」なかったのでしょうか。なぜそのお金を貧しい人々に施さなかったのでしょうか。彼らの信仰とは、いったいどういうものだったのでしょうか。

 これは決して、非難しているのではありません。私は美術品も教会建築も好きです。ただ、彼らが「信じ」ているものとは何なのか、彼らの「信じる」とはどういう意味なのかが、素朴に疑問なのです。

むしろ「信じ」られない部分が必要なのか

 キリスト教徒たちは、「金持ちが天の国に入るのは難しい」というイエスの言葉を知っています。しかし、世界のキリスト教徒たちのほとんどは、本当にその言葉を「信じ」ているようには見えません。むしろ、できるだけ多く稼ぎ、人並みに愚かな贅沢をして暮らしたいと思いながら働いているのが普通です。自分は生活を保てるギリギリのお金があれば十分だと言って、残りは全て貧しい人たちに寄付をしてしまうという人など、ごく一部の例外を除き、ほとんどいません。信徒たちは、聖書の言葉を文字通りには実践できないことに内心では後ろめたさを覚えつつも、それはそれでいいのだと正当化する言い訳も用意しながら生きているわけです。こうした傾向は、平和や非暴力に関する教えにおいても顕著です。よく知られていますように、聖書には「敵を愛せ」とか「右の頰を打たれたら、左の頰も向けよ」と書かれています。しかし、それを文字通り「信じ」て実践するキリスト教徒はほとんどいません(戦争や暴力の問題については、第四章で触れます)。

 要するに、ほとんどの信徒は、その宗教の価値観を全体としては受け入れつつも、いくつかの教えについては実践したくないので実践しないわけです。実践できないような教えをなんとか実践できるように努力することもありますが、多くの場合は、いくつかの教えについてはまったく実践する気もないまま、それにもかかわらず、その宗教を全体としては受容しようとします。全てを実践しなくても「信仰」であり、全てを「信じ」なくても「信仰」である、というのが多くの人々によって営まれている宗教の現実だと言ってもいいのかもしれません。

 宗教というのは、倫理的教説にしても、奇跡物語にしても、それらを信じられないからといって、単に「信じられない」で終わってしまうものではありません。むしろ「信じられない部分」や「実践できない部分」があるからこそ、その宗教は人々の心や社会のなかに引っ掛かり続け、継承されるのかもしれません。私たちは、抵抗のないツルツルとした物はつかみにくく、多少ザラついていたりデコボコしたものの方がしっかりと握れます。宗教においても、一般の常識的感覚からすればザラつきをおぼえる部分、つまり「信じ」るのが難しい部分が必要で、それでもそれを握り続けようとするときに生じる摩擦熱こそが、宗教というものの体温になっているようにも見えます。



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