ちくまプリマー新書

キリスト教徒たちは何を「信じ」ているのか?
『宗教を「信じる」とはどういうことか』より本文の一部を公開!

非科学的な神という存在をなぜ信じるのか。神がいるならなぜ悪があるのか。宗教は平和をもたらすのか。素朴な疑問をもとに宗教と人間の関係を解き明かす1冊『宗教を「信じる」とはどういうことか』より本文の一部を公開します。
 

そもそも何を信じているのか

 例えばキリスト教徒たちは、具体的にはいったい何を「信じ」ているのでしょうか。この問いに対しては、とりあえずは「使徒信条」を参照すると話が早いかと思います。「使徒信条」というのは、日曜の礼拝ですべての信徒が声を揃えて唱えるものです。信徒であれば小学生でも暗唱しているくらいのもので、全文は次の通りです。

「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(をとめ)マリヤより生れ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがへり、天に昇り、全能の父なる神の右に坐(ざ)したまへり、かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審(さば)きたまはん。我は聖霊を信ず、聖なる公同の教会、聖徒の交はり、罪の赦(ゆる)し、身体のよみがへり、永遠(とこしへ)の生命(いのち)を信ず。アーメン」

 これは要するに、キリスト教徒が「信じ」ている事柄を要約した文章です。一読しておわかりの通り、ここでは、「○○を信じます」というフレーズが繰り返されています。これらの「信じ」ている内容そのものについては、科学的・合理的には検証のしようがありませんので、今ここではそれらについては問題にいたしません。しかし、信じているその内容についてではなく、皆でそろって「○○を信じます」と口に出す行為そのものついて考えてみますと、やはりどうしても気になることがあります。というのは、「信じます」とわざわざ口に出す行為に固執すること自体が、そもそもの前提として、実は「疑う」という選択肢が頭の中にあるからではないか、という推測もやはり捨てきれないからです。

本当に信じていたら、むしろ「信じている」と言わなくなるのでは

 一般に、人は、本当に心から何かを信じきっていたら、「疑う」という発想自体がなくなるので、実際には「信じます」とか「信じましょう」という言葉は口から出てこなくなるものではないでしょうか。私たちは、心から何かを信じていれば、ただ信じているその事柄を前提に、考えたり行動したりするだけになるものです。逆説的な言い方になりますが、「信じている」という自覚さえなくなったときに、ようやくその人は本当の意味で「信じている」ということになる、と言ってもいいでしょう。

 例えば、わざわざ現金を手にして「私はこれら貨幣の価値を信じています」と口に出す人はいません。なぜなら、ほぼ全ての日本人は貨幣の価値を本当に信じきっているからです。ルーブル美術館に行ってモナ・リザを指差し、わざわざ「私はこれを本物だと信じます」と口に出す観光客もまずいません。なぜなら、誰もがそれを本物だと信じきっているからです。めでたく大学入試に合格した青年に対して、友人や家族が「私たちは君がカンニングなんかせず、正々堂々と試験を受けたのだと信じているよ」なんてわざわざ言ったら、その青年はひどく傷つくでしょう。「信じている」と言われたことで、かえって「疑われている」と感じるからです。

 本当に何かを信じ切っている人にとっては、自分自身のその「信じる」という行為は透明になって見えなくなるはずです。「私は○○を信じています」と自覚し、そう口に出すのは、疑う余地もありうることや、実は十分には信じきれていないことの暗示になってしまう場合もあるように思います。そうした意味で、私は信徒たちが「○○を信じます」とわざわざ口に出すことに、そこはかとない違和感を覚えることもあるというわけです。

 ただし、次のように考えれば、違和感はなくなるかもしれません。すなわち、信徒たちはこの「使徒信条」やその他における「○○を信じます」という言葉を、実は神さまに対して言っているのではなくて、あくまでも教会の仲間たちに対して言っている、というふうに捉えるのです。神さまに対して「信じています」と言っているのではなく、教会の仲間同士で「私は神を信じているけれど、あなたも信じていますよね」「私たち、同じものを信じていますよね」と互いに確認し合って、宗教団体としての連帯を意識し、団結を強めることが真の狙いなのかもしれません。もしそうだとするならば、こうした「○○を信じます」という定型文を作って、皆で一緒にそれを口に出して唱えることの意義もよくわかります。

「信じています」と言えば信者なのか

 しかし、また別の疑問も生じてきます。それは、ある宗教について誰かが「私は信じます」と自己申告をしたとしても、他人にはなかなかその真偽や程度を確かめることができない、という問題です。

 イエスが十字架にかけられて死んで以降、キリスト教徒はものすごいハイペースで増えていきました。新約聖書の「使徒言行録」二章四一節には、人々はペトロの言葉を聴いて、洗礼を受け、「その日に三千人ほどが仲間に加わった」とも書かれています。一六世紀末の日本でも、ザビエルがやって来てからのわずか数十年で何十万人というキリスト教徒が誕生しました。宣教師が一日で何百人にも洗礼を授けた、という話も残っています。しかし、そういった人たちは、そもそも、キリスト教というのがどのような宗教であるのか、その教義や信仰内容はどのようなもので、何を「信じ」るものなのか、本当にきちんと理解できていたのでしょうか。一六〜一七世紀にかけての日本では、まだ日本語訳の聖書は流通していませんでしたし、神学や教会史を学ぶ機会もほとんどありませんでした。日本語のつたない宣教師の説教くらいしか、その宗教について知る手がかりはありませんでした。では、彼らはいったい何を「信じ」たのでしょうか。とても不思議です。

 日本だけの話ではありません。ヨーロッパでは長い間、一般人の読めないラテン語訳聖書が使われていましたし、印刷機が発展する以前は聖書そのものが貴重品で、一般の信徒一人ひとりが聖書を所有して自宅でそれを読むことなどありませんでした。各国語訳の聖書が簡単に手に入る現代においてさえ、洗礼を受ける時点であの分厚い旧新約聖書をしっかり通読していたという人は稀でしょう。信徒になって一〇年がたっても、「三位一体(さんみいったい)」や「贖罪(しょくざい)」などの概念について正確に説明できる人は、実際にはけっこう少ないと思います。

 また、今でもいくつかの教派には「幼児洗礼」といって、赤ん坊や子供にも洗礼を授けることがあります。そうした子供たちは、自分はその宗教の教義をちゃんとわかっていない、ということさえよくわかっていません。しかし、それでも「信徒」にカウントされます。では、いったい「信徒である」とか「信仰をもつ」とはどういうことを指すのでしょうか。何を「信じ」ているのかさえよく知らなくても、とにかく自分は信徒だと称したり、この赤ん坊は信徒だと主張したりしさえすれば「信仰」があることになるのだといたしますと、それはけっこういいかげんであるようにも思えてしまいます。「信じています」とか「信仰をもっています」という自己申告そのものにどんな意味があるのかについても、よく考えてみる必要がありそうです。

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