ちくま文庫

あなたのなかに誰かいる
世界文学のはじまり

八木詠美さんの太宰賞を受賞したデビュー作にして、世界18カ国語(4/26現在)で翻訳が刊行/進行中と話題の『空芯手帳』がはやくも文庫化! 小説家にして翻訳家でもあり、海外文学に通暁する西崎憲さんに書評していただきました。ご覧ください。

 未読の方のためにストーリーをすこし紹介しよう。
 一人称の語り手である柴田は紙管製造会社で事務員として働いている。前職は人材派遣会社事務で、二十代半ば過ぎにはチーフを務めていた。しかしハラスメントがきっかけになって退職し現在の会社に就職した。
 最初は転職先の牧歌的な体制に安心するが、しだいに古い体質が浮き彫りになっていく。ことにジェンダーロールの固着は耐えがたいもので柴田は女性であることで理不尽な務めをつぎからつぎへと押しつけられる。
 そして商談スペースの煙草の吸い殻入りのコーヒーカップの片付けを無言で強いられたとき、以下の言葉が口を衝いてでる。「今妊娠していて。コーヒーのにおい、すごくつわりにくるんです」
 未婚の柴田はそうした経緯で社内で妊娠していることになる。彼女は訂正はしない。そして妊娠を事実として日々を送るようになる。
 読者はこのあたりで旧来の小説とは違うという感触を覚えるかもしれない。なぜならもしそういったことが生じた場合に想定される行動を彼女はしないのだ。ライブ好きの柴田の感情生活は豊かであるが、妊娠偽装の是非などについて触れられることはない。
 柴田は妊娠アプリを確認し、おなかに赤ちゃんがいますキーホルダーを駅の事務室でもらう。腹部は膨らまないのでさまざまな素材でそれらしく見えるよう工夫する。
 ストーリーは妊娠十週目、二十週目と進んでいく。
 読者はここでまた首を捻るかもしれない。この話はいったいどこに向かっているのかと。あるいはいくつか自分で結末を考えはじめるかもしれない。
 小説の解釈という点でこの作品には注目すべき点が多い。そのひとつは小説における登場人物の嘘というものである。
 柴田の妊娠は偽装なので、もちろん胎内にはなにもないはずだ。しかしある瞬間そうではない可能性が示唆される。詳しくは書かないが、なんらかのものが子宮内に存在することが仄めかされるのだ。
 これはいったいどういうことなのだろう。柴田は最初から嘘をついていたのか。もしくは語っていないことがなにかあるのか。そして語り手が小説中で嘘をつくとき読者であるわれわれはそれを知ることができるのか。嘘をつく作中人物は古くはポー、新しくはジーン・ウルフと例は少なくない。
 マリアの処女懐胎への言及が何度かあるのは自然だろう。キリスト教の聖母に目を向けると、柴田の胎内にいるのは聖性を具えている可能性があるし、アイラ・レヴィンの『ローズマリーの赤ちゃん』に思いをはせると、そこにいるのは魔的なものである可能性がある。
 あらためて考えると胎とは容器である。胎児はそこに一時的に宿ったものである。もしかしたらこの作品が重視しているのは宿ったものではなく「一時的」のほうなのだろうか。
 柴田の言動は軽いものであって、それを考えるとここに見てとるべきものは「容器は満たされ、容器は空になる」ということだけなのかもしれない。そしてその場合、気になることが生じる。容器の内容が容器の所有者つまり柴田に影響を与えるといったことはあるのだろうか。宿るものに宿られるものが支配されるといった事態は生ずるのか。昆虫の世界でしばしば見られるように。
 子宮を「脳」に、胎児を「意識」に置き換えてみよう。脳という容器に入る意識はたしかに一時的にも見える。そしてそう考えることには漠然と恐ろしさがある。この作品が巧妙なユーモア小説に見える一方で畏怖や恐怖の片鱗をわずかに覗かせているのは意識にたいするドライさのせいだろう。
 本作は英訳に加え、イタリア、フランス、台湾で翻訳がでていて、ほかに十の言語に訳出中だという。事実が作品の価値に追いついていくことには安心感がある。ふふふ、日本における世界文学のはじまりである。

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