ちくま文庫

小さく、遅く、むなしい、遁走
三品輝起『すべての雑貨』解説

バンドceroや、ソロで活躍する音楽家の荒内佑さんによる、三品輝起『すべての雑貨』(ちくま文庫)の解説を公開いたします。雑貨店主が書いた、雑貨についての本であり、現代消費社会についての本であり、著者の人生についての本という、一風変わった本書を荒内さんはどう読まれたのか。ぜひお読みください!

 本書を3回読んでみた。最初はデータで、2回目は紙のゲラで、3回目はスピードを上げて、付箋をペタペタと貼り、傍線を引き、メモを書き込みながら。そして、なんとなく意味を掴んだつもりでいたのに、読めば読むほど『すべての雑貨』がどんな本なのか分からなくなってくる。雑貨とは何か。雑貨感覚とは何か。雑貨化とは何か。雑貨屋を営みながら、雑貨化する世界を前にして著者は、雑貨のことをどう思っているのか。次第に霞が深くなる。これも雑貨の罠、雑貨の病なのだろうか。

 確かなのは、本書は「雑貨そのもの」について書かれた雑貨の紹介本でも、世界中の雑貨を探し回るような冒険譚でもない。そうではなく「雑貨をめぐる状況」について書かれたエッセイだ。社会学でも、経済学でも、考現学でも、消費文化論でもなく、エッセイ。もちろん今挙げた要素は全て入っているが、アカデミックな方向に行きそうになる手前で、踵(きびす)を返し、西荻窪の雑貨屋に帰ってくる。広大な思索や考察をくり広げても、あるいは遠い思い出を掘り起こしても、閉店後の店で、店主が足元を見つめ1人立ち尽くしている ―― そんな印象が通底している。

 我々が漠然と「雑貨」という時、思い浮かべるもの。具体例はいくらでも挙げられそうだが、例えば自分の机の横には、内部に電球が埋め込まれた光る地球儀が置いてある。西荻窪の古道具屋で10年以上前に買ったものだ(私も西荻窪に住んでいたのである)。これは、まさに雑貨といえそうだ。だが、雑貨の定義とは。ほとんどの読者は考えたことがないだろうし、私もそうである。辞書を引いたら「雑貨=日用品」と書いてあったが、光る地球儀は日用品とは思えない。その隣に置いてある音楽制作用スピーカーの方が、よっぽど日常的に使う物である。だが、スピーカーを雑貨というには違和感があるし、光る地球儀は埃(ほこり)をかぶって放置されているが、かなり断定的に、これは雑貨である、といえそうだ。では再度、雑貨とは何か。

 本書によれば「雑貨」とは「雑貨感覚によってひとがとらえられる物すべて」「ひとびとが雑貨だと思えば雑貨。そう思うか思わないかを左右するのが、雑貨感覚」(21頁)だという。雑貨であるか否かは雑貨感覚によって決まる。では「雑貨感覚」とは何か。端的に「イメージの落差」(17頁)によって物を選ぶ感覚である。物の実用性や内容ではなく、表層のちがいに頼った感覚。「本でいうならば、書かれている内容ではなく、カバーや帯やフォントを基準に小説を選ぶような感覚」(17頁)というのがわかりやすい。なので、雑貨感覚によって大きく定義される雑貨とは「深層のコンテンツより、表層の作用に重心が移ってしまった物たち」(38頁)といえる。私の解釈で至極シンプルにいえば「上っ面で物を選べば、もう雑貨」として良さそうな気がする。

 そして雑貨は増え続けている。イメージの落差(=表層の差異)とは「ちがい」のことである。「ちがい」は相対的にしか生まれない。「数秒まえの過去とちょっとでもちがう物を生み出し消費してもらわなくてはならない、という資本の掟、つまり飽くなき差異化」(30頁)によって雑貨は増えていく。つまり、アンティーク調の地球儀、タッチペンで国や都市名に触れると喋る地球儀、クリスタルの地球儀、光る地球儀といった表層をすげ替えたバリエーションが無数に作られる。

 飽くなきイメージの差異化によって、雑貨は増え続ける。だが、これは雑貨が物理的に増加している、ということだけではない。確かに地球儀のバリエーションが作られていくように、物としての雑貨は増え続けている。しかし、他方で、これは人間の認識の問題でもある。荒物屋に置かれた「アルミのやかん」「タッパーウェア」「ビニールテープ」(101頁)といった道具が「まばゆい戸外にもちだした刹那(せつな)、貪欲な雑貨感覚にさらされ、ただのレトロ雑貨として消費されてしまう」(102頁)のは、雑貨が新たに作られる訳ではなく、本来の機能性が脇に置かれ「かわいい」「おしゃれ」といった雑貨感覚によって道具が雑貨と認識されてしまうことである。これを本書では物の「雑貨化」と呼んでいる。

 世界は雑貨化し続けている。では、雑貨感覚を蔓延させ、世界の雑貨化を加速させているのは何か。もちろんネットである。この雑貨化の流れは「インターネットの全面化とパラレルな話」(42頁)なのであり、「いまある雑貨感覚はまちがいなくインターネットによって醸しだされたものだ」(84頁)という。「雑貨」を定義づける「雑貨感覚」はネットによって作られている。醸成された「雑貨感覚」は世界の「雑貨化」を推し進める。「「いいなー」「かわいい」「素敵」「かっこいい」「おしゃれ」といった心の動きが、どんどんネット空間に情報として吸いあげられるようになった。それはシェアされ、雑貨感覚という巨大な集合意識の雲を生みだしていく」(85頁)。これは日常的に私たちも実感するところだろう。携帯のブラウザで何か検索する。なんでもいい。例えば不動産、楽器、ニュース、車なんかを検索した後にインスタグラムのアプリを開くと、フォローしている人たちのポストの間に、それらにまつわる広告が表示されるようになる。リノベした古民家、ビンテージシンセサイザー、種子島へのロケット発射見学ツアー、古いフォルクスワーゲンのゴルフⅡ。来歴が分かるならまだいいが、次第に人々の欲望は知らない間に方向付けられていく。ゴルフⅡが良いと思うなら、ボルボの240シリーズも気に入るかも知れない。ビンテージマンションも素敵に感じるかも知れない。ロケットの打ち上げを興味本位で検索しただけだが、種子島への旅行も良いかも知れない……こういったものに惹かれる感性は、いつどこで作られたのだろうか。いつの間にか、人々の欲望はアルゴリズムによって分類され、先回りされて提示されるようになる。もはや「「これがほしい」と思ったときの欲望がどこからきたのか、いまや来歴をたどることは不可能になった」(85頁)のである。

 そしてスマホを持った私たちは、立ち止まって考える暇もないほど、断片化された言葉とイメージを供給され続け、窒息しかかっている。文脈がバラバラになることで軽くなった言葉とイメージは高速で行き交うようになる。それを受けて私たちは、SNSでも、Amazon でも、Tinder といった出会い系(やったことないが)でも、それらの情報の表層を一瞬眺めて「かわいい」「かっこいい」「おしゃれ」で振り分けることしか出来なくなっていく。雑貨感覚はさらに増大していく。

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