単行本

リアルに根差したフィクションへの補助線
『現地発 韓国映画・ドラマのなぜ?』

本書を読んでから、韓国ドラマ・映画を見ることでハッと気づくこととは? 韓国ドラマに詳しい翻訳家・小山内園子さんならではの視点から。

 たとえば、韓国ドラマの『賢い医師生活』。主人公の一人、イ・イクチュンという男性医師は消化器手術のエキスパートだ。その腕は同業者からも厚い信頼を寄せられている。優秀なだけではない。娘から肝移植を受けているくせに断酒できない父親に、もうそんな患者を診ることはできない、と叱ったりもする。治りたいと努力する人の力になると決めている。正義感が強く、エリートなのに鼻にかけず、人情派で、子煩悩で、冗談が好きで、バンド活動をさせれば歌もうまい、まったく素敵なキャラクターであることよ……と、十分堪能してこのドラマを「卒業」したのが数年前。だが、本書の「お父さんは、何をしてるの?――家族への関心」の章を読み終わって、慌ててネットフリックスで再視聴してしまった。そんなセリフがあったとは。そんな〈旨味〉に、まったく気づけていなかったとは。
 韓国で計八年暮らしてきた著者は、韓国社会が「家族」に過剰なまでの関心を寄せることを肌で感じている。何かと言うと投げかけられる、父親は、夫は、何の仕事をしているのか、という問い。自身も、映画研究で大学の博士課程に進む際、提出資料に両親のパスポート、もし両親が離婚しているなら離婚証明書(!)を、と言われて唖然とする。
 そうした著者の生活者としての皮膚感覚が、ドラマや映画を見た時にざわざわと反応するのだ。その一例が、『賢い医師生活』でイ・イクチュンが初対面の研修生とやり取りするシーンでの気づきである。他の医師たちが「お父さん、何してるの?」と口を揃えて言うなかで、彼だけは研修生にこう尋ねる。「よく聴く曲は?」。家族ではなくて個人への問い。著者はその一言に、制作者側のメッセージを読み取る。
「これらのシーンがあるということ自体、ドラマの作り手に父親の職業を問うことに対する問題意識があるということだろう」(本書64ページ)。
 生活の皮膚感覚というのはなかなかに微妙なものである。その社会の温度や湿度になじみすぎて当たり前になってしまうと、違和に気づけない。韓国関係の仕事をしていると、よく日本在住、日本がディフォルトの人から「韓国って本当に変化が速いですよね」と声をかけられることがあるが、他方韓国人の友人からは、「あんなに変化が遅い日本で、よく我慢できるね」とも呆れられる。自分が内蔵している物差しがどんなものかは、自覚的にならないと気づけないのだ。物差しに甘えれば、自分と違うもの=「変」と決めつけがちになる。
 そう考えたとき、韓国になじみきらず、日本を持ち込みすぎもしないという著者の皮膚感覚は絶妙なのだ。「なんで?」「あれ?」「へえ~」という思いをスルーせず、そこから、「違うこと」の面白さをひもといてくれる。
 専門とする映画の読み解きも同様である。光州事件を描いたイ・チャンドン監督の『ペパーミント・キャンディー』にたびたび登場する線路のシーンを、著者はこう書いている。
「20年前に戻ったところで、列車は線路に沿って同じ道のりを進むしかない。ラストシーンのヨンホの涙は、20年後の運命を予期しているかのようだった」(本書191ページ)。
 降りられない列車に押し込まれた若者たちの、一方向に向かうしかない悲劇。この映画の原題が『ハッカ飴』で、軍靴に踏み砕かれるハッカ飴が主人公たちの青春のメタファーと知ればまた、『ペパーミント・キャンディー』を見直したくなる。
 映画もドラマも、いい作品と出会えば、その周辺情報を探りたくなるもの。本書はその期待に応えるだけでなく、本書を読むことで新たなフィクションとの出会いが可能になる。もっといえば、隣の国だから、隣人だからこそ気づく何かにも、思い至らせてくれる。著者がリアルに根差しながらフィクションに引いてくれる補助線は、だから本当に、心強い。

 

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