ちくまプリマー新書

客観性への過度な信仰によって競争と序列化が生み出されている現代社会
『客観性の落とし穴』より「はじめに」を公開!

客観性と数値を過度に信用している学生の姿に疑問を抱いた著者。数字だけを優先させる社会は競争と序列化を生み、ひいては自分自身を苦しめる。数字と競争への強迫観念から解放する『客観性の落とし穴』より「はじめに」の一部を公開!

 大学一、二年生に向けた大人数の授業では、私が医療現場や貧困地区の子育て支援の現場で行ってきたインタビューを題材として用いることが多い。そうしたとき、学生から次のような質問を受けることがある。

 「先生の言っていることに客観的な妥当性はあるのですか?」

 私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされているが、客観的なデータでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。

 数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか。そのような思いが湧いたことが本書執筆の動機である。

 とりわけ気になるのは、数値に重きがおかれた結果、今の社会では比較と競争が激しくなったのではないか、ということだ。

 先にもあげた私の授業では、対人援助職のみなさん、そして身体障害の当事者、薬物依存から刑務所を経験した方、差別を受けた方といった人たちをゲストにお呼びしている。大学に入ったばかりの若い学生を前にして、生命とは何か、死を看取るとは、あるいは差別や障害はどのように現代の日本において問題なのかを考えてもらうようにしている。そこで学生から次のような質問を受けることがある。

 「誰でも幸せになる権利があると言うが、障害者は不幸だと思う」

 そもそも障害とはなんだろうか。しばしばimpairment が器質的な欠損としての障害であるのに対してdisability は環境が整っていないがためにできないことが生じてしまう障害を指す。

 地方で生活している人が、自家用車を持たずに不便であるときに「障害」という言葉は使わないだろう。ところがエレベーターがないと上の階に上れない車いすユーザーは「障害者」と呼ばれる。エレベーターという環境さえ整えば不便は生じないはずだ。

 disability とはこのような事態である。環境の整備によって、ある場面では障害が生まれ、ある場面では生まれない。あるいは、ろうの人たちは、ろう者のグループのなかでコミュニケーションを取るときには不自由はない。ところが聴者の社会のなかに入った途端に「聴覚障害者」として不便を被り場合によっては差別を受ける。つまりdisability としての障害から考えたときには、環境を整えるか整えないかという社会の側の姿勢が問われるのだ。

 もし「障害者は不幸だ」としたら、それは社会の側の準備の問題である。さらには、幸せ/不幸せの基準をどこに置くかを他人が判断できるのだろうかという疑問も残る。

 貧困について議論していた授業で、生活保護をめぐってこんなコメントが来たことがある。

 「働く意思がない人を税金で救済するのはおかしい」

 私たちは汗水垂らして働きながらわずかな収入を削って税金を納めている。たしかに苦労している私が払った税金で「働く意思がない人」を助けるというのは腹立たしいかもしれない。

 でも、もしかすると、「働く意思をもたない」人にはなにかの事情があるのかもしれない。フィールドワークのなかで、うつ病で朝起きることができないひとり親家庭に出会うことがあった。その母親は、パートナーのDVから子どもを連れて逃げてきて、暴力の後遺症でうつ病に苦しんでいた。

 あるいは精神障害や発達障害といった事情ゆえに、安心して働く環境を手にすることができないならば、それは社会の側が排除しているのかもしれない。働きたいと一度は思ったが、働けるチャンスがないため働くことをあきらめる人もいる。社会のほうが、働きやすい環境を作ることを困難にしているのだとすると、社会が生活を支えることは自然なことだろう。

 おそらく学生たちのコメントは私たちの社会の代表的な意見でもあり、私自身もかつては同じように考えていた。学生が、社会的に弱い立場に追いやられた人に厳しいのは、そもそも社会のなかにそのような厳しい視線が遍在しているからだ。そして、その言葉のなかに社会をどのように考えていくとよいのか、どう行動したら私たち自身が生きやすくなるのかのヒントもある。そこで、本書では、私たち自身を苦しめている発想の原因を、数値と客観性への過度の信仰のなかに探る。

 一見すると、客観性を重視する傾向と、社会の弱い立場の人に厳しくあたる傾向には、直接の関係はなさそうだ。しかし、両者には数字によって支配された世界のなかで人間が序列化されるという共通の根っこがある。そして序列化されたときに幸せになれる人は実のところはほとんどいない。勝ち組は少数であるし、勝ち残ったと思っている人もつねに競争に脅かされて不安だからだ。

 さらには、こういった社会への厳しい視線は、学生自身を苦しめている。なぜなら、自分自身を数字に縛り付けて競争を強いるからである。かつて私もそうだった。競争することが社会のなかで大事なことなのだと思いこんでいた。私が教える学生たちの多くも、競争へと駆り立てられ自分で自分を苦しめている。この数字と競争への強迫観念から解放されることで私自身も楽になっきた。

 とはいえ数字を用いる科学の営みを否定したいわけではない。数字に基づく客観的な根拠はさまざまな点で有効であるし、それによって説明される事象が多いことは承知している。それでも、数字だけが優先されて、生活が完全に数字に支配されてしまうような社会のあり方に疑問があるのだ。数字への素朴な信仰、あるいは数値化できないはずのものを数字へと置き換えようとする傾向を問いなおしたい。



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