ちくま文庫

『むしろ幻想が明快なのである――虫明亜呂無レトロスペクティブ』編者解説

虫明亜呂無『むしろ幻想が明快なのである――虫明亜呂無レトロスペクティブ』(ちくま文庫、7月刊)の、編者である高崎俊夫氏による解説を公開いたします。 ※書籍に収録された編者解説に一部誤りがございました。私どもの不手際でご迷惑をおかけし誠に申し訳ございません。当web版では修正し、文章の最後に訂正箇所を掲載しておりますので、ご確認いただけますと幸いです。

 本書は、スポーツ、映画、文学、演劇、音楽、旅、ギャンブル、恋愛論、女性論などの幅広いテーマの評論を手がけた伝説の作家、虫明亜呂無の文庫オリジナルのエッセイ集である。

 私がこの神秘的な響きを持つ名前の文学者を初めて知ったのは、1971年、当時、もっともヒップで無敵な面白さを誇っていたリトルマガジン「話の特集」に掲載されていた「アメリカの野球」に始まる連作だった。なかでも、戦前、未公開に終わったジョン・フォードの映画をマクラにして、メアリー・スチュワートとエリザベスという2人の女王の相克を流麗な筆致で描いた「北斗七星」、そして、アムステルダム・オリンピックの女子八百メートルで二位入賞を果たした天才ランナー、人見絹枝をモチーフにした「大理石の碑」という小説ともエッセイともつかぬ美しい散文には深い感銘を受けた。石岡瑛子のイラストレーションも素晴らしかったが、この連載は、大幅に加筆され、ようやく1979年に、彼女のモダーンな装丁で、話の特集より「スポーツ恋愛小説」と銘打たれ、『ロマンチック街道』という単行本として刊行された。

 この『ロマンチック街道』が出た1970年代後半というのは、虫明亜呂無がもっとも脂が乗った旺盛な執筆活動を行なっていた時期ではなかったろうか。

 当時、テレビの競馬中継にはたびたび寺山修司とコンビで登場していたのをよく憶えている(寺山とは、対談集『対談・競馬論――この絶妙な勝負の美学』〔番町書房、後にちくま文庫〕も出している)。たしか、短い期間ではあったが、民放の深夜に放映されていた映画劇場では解説を担当していたし、資生堂がスポンサーだったFM東京の「渡辺貞夫 マイ・ディア・ライフ」というジャズの番組では「虫明亜呂無のブラバス・エッセイ」という彼が書き下ろした短いエッセイを自ら朗読するコーナーがあった。どちらも江戸前のイントネーションによる虫明の独特のシブい声には魅了されたものである。

 とりわけ、その頃「スポーツニッポン」紙で連載が始まった傑作コラム「うえんずでい・らぶ」は毎週、愛読し、できうる限りスクラップしておいた。

 だいぶ後になって気づいたことだが、驚いたことに、虫明亜呂無は、この時期に並行して競馬新聞「競馬ニホン」と月刊誌「みんおん」にもエッセイを連載していたのである。テーマは、当時、話題になっていた映画、演劇、文芸、クラシック音楽、ジャズ、歌謡曲、テレビ番組と多岐にわたっているが、今、考えてみても、埃っぽいスポーツ新聞や競馬新聞の片隅にこんなハイレベルのカルチャー・エッセイが数年間にわたって連載されていたということ自体、空前絶後ではないかという気がする。

 私は当然のことながら、熱烈な虫明ファンとなり、古本屋をめぐっては、直木賞候補になった短篇集『シャガールの馬』(講談社、後に旺文社文庫)、『クラナッハの絵――夢のなかの女性たちへ』(北洋社)、『時さえ忘れて』(グラフ社)、『愛されるのはなぜか』(青春出版社)などのエッセイ集を買い求めたが、幻の処女作『スポーツへの誘惑』(珊瑚書房)だけはどうしても見つけることができなかった。

 1980年代に入ってしばらくすると、虫明亜呂無の名前を雑誌で見かける機会が少なくなり、やがて知り合いの編集者から、脳梗塞で倒れたらしいという噂が耳に入ってきた。

 そして、1991年、筑摩書房から玉木正之の責任編集により「虫明亜呂無の本」全3巻の刊行が始まったが、その最初の巻が出た直後に、虫明亜呂無が肺炎のため急逝したことを知った。享年67。私は、さっそく哀悼の思いで『虫明亜呂無の本・2 野を駈ける光』を手に取ったが、私が長い間、探して見つからなかった『スポーツへの誘惑』のエッセイが幾つか収められていて、とても嬉しかった。

 ただ、この3冊は従来のスポーツ評論の枠にとどまらない虫明亜呂無の魅力を十分に提示していたが、私がかつて愛読していた映画評論や、とくに「うえんずでい・らぶ」のコラムが入っていないことが私にとってはやや残念であった。

 多彩なフィールドで絶妙なる才筆をふるったポップなコラムニストとしての虫明亜呂無の魅力をなんとか再発見につなげたい。そんな思いをずっと抱えていた私は、2009・10年に、清流出版からエッセイ集『女の足指と電話機―回想の女優たち』、『仮面の女と愛の輪廻』、短篇集『パスキンの女たち』を続けて編纂し、世に問うことにした。とくに二冊のエッセイ集は意想外の反響を呼び、その結果、スポーツ以外の幅広いテーマをめぐって魅惑的な上質の文章を紡いだ虫明亜呂無という稀有な文学者の全貌が明らかになったと自負している。

 たとえば、ノンフィクション作家の黒岩比佐子が『女の足指と電話機』の書評で次のように絶賛していたのが忘れられない。

「本書に収録されている文章の多くは30年以上前に書かれ、46年前のものさえある。その時期の評論がいま、古さをまるで感じさせないのは、ある種の奇跡ではないか。どの一篇も、書かれたばかりのように清新で瑞々しい。(中略)虫明亜呂無の筆にかかると、リタ・ヘイワースが、マリー・ラフォレが、早世した「忘れられた美女」及川道子が、艶やかに輝き始める」

 作家の堀江敏幸も『仮面の女と愛の輪廻』の書評で次のように書いている。

「特筆すべきは、女性を描くときの呼吸のだ。岩下志麻、岸田今日子、吉永小百合、池内淳子、太地喜和子、ジェーン・フォンダらの肖像の、冷静な距離を置きながら、眼で愛撫するようなまなざしの蕩尽は、小説だのエッセイだののジャンルを超えて印象深い。「僕は女優としての岩下志麻はもとより、女優としてのだれだれには、まったく興味がない。あるのは、ひたすら、彼女らが女であることである」と彼は記した。ほとんど片思いにも似た女性への注視は、だから年齢に左右されない」

 その後、2016年には『女の足指と電話機』が中公文庫で復刻されたこともあり、ふたたび虫明亜呂無に注目が集まりつつある。そこで、私は文庫オリジナルという形で虫明亜呂無のベストアルバムをつくってみようと考えた。「レトロスペクティブ」というサブタイトルも、名画座で偏愛する映画作家の特集を企画するようなワクワク感がある。その際、私が心がけたのは、なるべく単行本未収録の文章を数多く収録すること。そしてキーワードとして思い浮かべたのが〈映画批評家としての虫明亜呂無〉である。

 虫明亜呂無が映画ジャーナリズムに最初に登場したのはドナルド・リチイの『映画芸術の革命』(昭森社、1958)の翻訳者としてである(共訳者は加島祥造)。

 その後、佐藤忠男編集長時代の「映画評論」で健筆をふるい、一時は同誌の編集者として数多くの撮影現場ルポを手がけている。

 かつて虫明亜呂無は「わが名はアロム」というエッセイのなかで、その不思議な名前の由来について、二科会で萬鉄五郎に師事した洋画家だった父親、虫明柏太が九月に生まれた息子に、菊が香るというイメージからの連想で芳香を意味するフランス語「アロム」と名づけたと述懐している。

 それゆえだろうか。虫明亜呂無の映画評論、エッセイの中で〈におい〉という言葉は特権的な意味合いをもっている。とりわけ、ヒロインを描写する際に、五感をすべて研ぎ澄ますように、ひたすら官能に身をゆだねるようにして紡ぎだされる言葉は、まさに〈眼で愛撫するようなまなざしの蕩尽〉というほかない。本書には、そんな触覚的で、なおかつ嗅覚をも刺激するようなエロティックな文章を数多く収めている。

 第一章の冒頭におかれた「女王と牢獄」はナチスによって命運を分けた二人の女優の数奇な生涯を交錯させたひと筆書きのような秀逸なエッセイである。ほかに太地喜和子、三田佳子、岩下志麻、木原光知子などのお気に入りの女性たちをめぐる印象的なスケッチがある。

 第二章は『スポーツへの誘惑』から「名選手の系譜――野球について」と「芝生の上のレモン――サッカーについて」という2つの名編を収めている。

 戦前の職業野球や野球場の暗く、寂しい、うらぶれた光景をこれほどの愛惜をこめて追想した美しいエッセイはほかにない。三島由紀夫が『スポーツへの誘惑』を読んで、〈最後の浪漫派〉と絶賛し、凄絶な自決を遂げる一年前に『三島由紀夫文学論集』(講談社文芸文庫)の編纂を虫明に依頼したのもむべなるかなと思われる。

  第三章は前述の人見絹枝を描いた哀切きわまりない「大理石の碑」と「朽ちぬ冠――長距離走者・円谷幸吉の短い生涯」を収めている。後者は数多のノンフィクション作家が流布させてしまったセンチメンタルに神話化されたイメージとはまったく異なる円谷幸吉の陰影に富んだポルトレの傑作である。

 第四章は「スポーツニッポン」の名コラム「うえんずでい・らぶ」から映画を中心に纏めている。『カッコーの巣の上で』、『グリニッチ・ビレッジの青春』『アニー・ホール』『キング・コング』などの魅力が1970年代同時代の空気感とともに鮮やかにとらえられていて感嘆するほかない。

 第五章は「競馬ニホン」と「みんおん」に連載された「ときには馬から離れますが」と「虫明亜呂無の音楽エッセイ」というふたつのエッセイからの収録で、競馬と音楽の話題からいつのまにか優雅に逸脱してゆく、誰にも真似のできない、その洒脱な名人芸を味わっていただきたい。

 最終章はルポライター、映画批評家としての虫明亜呂無の端倪(たんげい)すべからざる凄みを堪能できる力編を揃えた。

 とりわけ巨匠内田吐夢監督の畢生の大作『宮本武蔵――乗寺の決斗』と『飢餓海峡』の撮影現場ルポは、ときおり内田吐夢が不意に呟く〝肉声〞を入念に掬い取りながら、作品が内包する途轍もない巨きなテーマに肉薄していくさまがなんともスリリングである。今どき、現場の熱気をアクチュアルに把握しながら、これほど深い省察に満ちたルポルタージュを書ける映画評論家がはたしているだろうか。

 虫明亜呂無はジョセフ・ロージーの映画『恋』について何度も繰り返し書いているが、「乾草」と「むしろ幻想が明快なのである」というふたつのエッセイは、この悲痛なまでの名作の背景と疼くような官能性を相補的な視点で綴った名品である。このエッセイを読み返すたびに、私は乾草のなかであらわになったジュリー・クリスティーの腰と脚と足の爪先の鮮烈なイメージを思い浮かべる。

 掉尾を飾るのはロマン・ポランスキーの『テス』をめぐる長篇評論だが、ここでも、いつしか旧弊な主題はわきに置かれ、ヒロインを演じたナスターシャ・キンスキーをあたかも視姦するかのような、あるいは、においを嗅ぎ、舐めまわすような虫明亜呂無のあまりに官能的な筆致にただ溜め息が漏れるばかりである。

 本書によって、虫明亜呂無という類い稀な〝エロティシズムの作家〞が幅広い層に再発見されることを願っている。

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虫明亜呂無『むしろ幻想が明快なのである――虫明亜呂無レトロスペクティブ』(ちくま文庫)の編者解説におきまして、以下の誤りがございました。

① P408、15行目 「編者がスポーツ・ジャーナリストであったために」

 『虫明亜呂無の本』全3巻の編者の玉木正之氏は「スポーツ・ジャーナリスト」ではなく、「スポーツライター」もしくは「スポーツ文化評論家」が正しい肩書となります。

② P408、15・16行目「内容が主にスポーツをテーマにした評論、小説に絞られており」

『虫明亜呂無の本』第2巻「野を駈ける光」には、「『同棲時代』の魅力」「男と女の恋愛は完全に賭けである」「美しきものへの憧憬」「森の騎士 ベートーヴェンとワーグナーのなかの心象風景」「ヴェルディの『オテロ』」などが入っていることからもわかる通り、玉木正之氏が編集した『虫明亜呂無の本』の内容は、「スポーツをテーマにした評論、小説に絞られて」おりません。

心からお詫びし、訂正申し上げます。

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