単行本

突きつけられた、肉体の重み
李琴峰『肉を脱ぐ』書評

李琴峰『肉を脱ぐ』の書評を、女優・読書系YouTube『ほんタメ』MCとして活躍される齋藤明里さんにお書きいただきました。主人公をはじめ、身体(とりわけ女性のそれ)をめぐるアイデンティティの問題がさまざまな登場人物によって取り上げられる本作。女優とYouTube、リアルとバーチャルを股にかけて活動する齋藤さんはどのように読まれたでしょうか。ご覧下さい。(PR誌「ちくま」2023年11月号より転載)

 読みながら、どんどん自分の体が重くなっていくようだった。急に体重が増えたわけでも、重い荷物を背負ったわけでもない。ただ、私が、私の肉体を自覚していったのだ。
 李琴峰さんの『肉を脱ぐ』の主人公、佐藤慶子は自身の身体にうんざりしている。お風呂に入っても足がすぐに冷えて、皮膚がつっぱるストレスが繰り返されることや、鏡に映る自分の不機嫌そうな顔に憤りを覚えている。どんな人でも感じることだが、彼女は人一倍、肉体を煩わしく思っていた。肉体への嫌悪感から、日々の生活は質素、食事も最低限で、生命の維持に必要なことだけを仕方なく行っているほどだ。そんな彼女は肉体の重さから解放され、言葉だけの世界で生きる自由さを求めて小説を書き始めた。しかしながら作品は鳴かず飛ばず、いくらTwitterでエゴサーチをしても感想がほとんど挙がってこない毎日だった。ある日、慶子は自分の作家名「柳佳夜」と同じ名前のアカウントの存在に気付く。同姓同名のVTuberが突如現れたのだ。ファンがほとんどいないVTuberなんてエゴサの邪魔だとブロックをした数ヶ月後、久しぶりに自分の作家名で検索したところ数えきれないほどのツイートが表示された。それらは全て、YouTubeチャンネルの登録者数が一〇〇万人目前の人気VTuberとなった「柳佳夜」に関する書き込みだったのだ。慶子が必死に書いてようやく文芸誌に掲載してもらった作品まで、そのVTuberの書いたものではと思われ、挙げ句の果てにはこちらが名前をパクった偽物だと炎上する始末。担当編集からも疑われた慶子は怒りに駆られながらそのVTuberの動画を見ていくうちに、肉体を持たない、ヴァーチャルな姿こそが自分の理想とする存在なのではと考えた。しかし、すぐにそんなVTuberにも本当は肉体があると思い直し、正体をつきとめようと動き出したのだった……。
 慶子が肉体を煩わしく思いながらも、同時に肉体に囚われているさまに、ページをめくるごとに苦しくなった。私たちは肉体に縛られている。人はまず見た目から相手の内面を想像するし、自分の身体が不調になれば精神も不調になる。読み進めながら、慶子の肉体への苛立ちは私にも思い当たる節があると気づいた。
 きっと彼女にとって「柳佳夜」は肉体の重みから解放される、理想の状態だったのだろう。しかしながら「柳佳夜」を知って作品を読んでもらえないと精神は満たされない。誰か見てくれている人はいないか、と必死にエゴサを繰り返すほど大切な「柳佳夜」を、偶然にも同じ名前だからという理由で別人に上書きされ、消されそうになってしまった。その怒りは慶子の肉体への憎しみを増幅させ、肉体を持たないVTuberの「中の人」を暴いてやろうという思いにまで至った。彼女は肉体を恨めば恨むほど、肉体に振り回される。肉体から解放されたいと望んでいるにもかかわらず、肉体を持たないものなど欺瞞だ、許さないという自己矛盾に陥ってしまったのだ。あまりに残酷だと感じてしまった。
 慶子の肉体への思いに関しては、彼女の友人で、男性の身体を持ちながらも女性として生きることを楽しんでいるトランス女性の優香ちゃんを見る目からも窺える。優香ちゃんは体に良い食べ物を食べたり、お化粧して体を美しく変えることで、幸せそうに過ごしている。慶子はそんな姿を疎ましく感じるのだ。自分の体を大切にする優香ちゃんと比べると、肉体を脱ぎ捨てたいという慶子の苦しみがより一層際立ち、とても切なかった。
 私たちは、肉体から逃れることはできない。それでも肉体を捨てて自由になることを求める彼女の執念に恐ろしさを抱きながらも、これだけ苦しい思いをしたならば、どうか肉体の重みから解放されて欲しい、と願ってしまった。だからこそ、私には、この物語のラストが救いにみえた。

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