ちくま文庫

決定論と確率論 ― 「万馬券」を買える人、買えない人
『やわらかい頭の作り方』重版記念試し読み

誰にでも「考え方の癖」があり、「これが常識だ」と思いこんだり、物事を片側しか見ていなかったり、自分の価値観が絶対だと思いがちだ。そのために、新しいアイデアが出なかったり、周りの人と認識のギャップを埋められなかったりして、仕事にも悪い影響があるかもしれない。 細谷功×ヨシタケシンスケ『やわらかい頭の作り方——身の回りの見えない構造を解明する』は、そんな「考え方の癖」に気づかせてくれる1冊です。刊行即重版を記念して、本文からもう1つ厳選して公開いたします! ぜひお読みください。

 ここまでお話しして想像がつくと思いますが、確率論者というのは、常に不確実性が高い状況で挑戦し続ける、起業家精神を持った人に多く、逆に決定論者というのは、ある程度確立された、不確実性の低い安定した世界に生きている人に多い傾向があります。

 また、能動的に「まず前に出て発言する」人は、「リスクを取って先に動く」という点で確率論的な発想になることが多く、受動的に「他人がやったことにコメントする」タイプの人は、「結果が確定してリスクのない状態で動く」という点で決定論的な発想になります。

 冒頭の話では「馬券」にたとえましたが、不確実性の高い何かに挑戦する人というのは、常にその時点で傍観している決定論の人からは嘲笑されます。ただし、ある(低い)確率でそれが成功した折には、それを見ていた決定論者は「自分もそうしておけば……」と、決して起こり得なかった事象を「後付けで」語ることになります。

 

 何か新しいことをするときに、他者の事例を参考にすることはよく行われますが、この場合にも決定論の人が求めるのは、とにかく成功した事例です。逆に一時期成功事例としてもてはやされたものでもその人や会社がその後うまくいかなくなった場合には決定論者は「やはりあれは間違いだった」と、あくまでも結果論でものを判断します。

 対して確率論者というのは、その事例が、その「行われた時点」での最適の判断がされたものかどうかで参考にするかどうかを判断します。必ずしも結果がうまくいかなくても、あるいはその人や会社がその後に失敗してしまっても、それは事例そのものの善し悪しとは異なると判断するのです。

 このような話は「リスクが取れるか取れないか?」という視点に加えて、実は根本的な思考回路にもその違いが起因していることを考慮することは重要です。

 もう少し卑近な議論への応用として、一見異なるように見えながら、根っこは同じ議論に「夢は努力すればかなうか?」という、「永遠の議論」とも呼べる話題があります。ここでも、決定論者と確率論者の議論はかみ合いません。

 決定論者はあくまでも結果で判断し、かつ「必ず成功しなければ成功要因ではない」というスタンスを取りますから、一人でも努力がかなわない人がいれば、その事例を持ち出して、「◯◯さんも××さんもあんなにやっているのに、夢はかなっていない。だからそれは間違いだ」と結論づけます。

 ところがもともと確率論で考えている人は、努力しているのに夢がかなっていない人が一人や二人いてもそれはもともと計算に織り込み済みで、だからといってその論がおかしいとは全く思わないのです。

 言い換えれば、決定論者は成功要因が「十分条件」(努力すれば必ず夢はかなう)でなければならないと考えますが、確率論者はそれを「必要条件」(少なくとも努力しなければ夢はかなわない)でよいととらえるのです。

 ただし、確率論者は失敗しても「数を打つ」ことを常に考えて「夢をかなえるまで」挑戦し続けます。だから、実質的には「必ずかなう」と信じているように見えるのです。

 つまりこれらの人たちは、もともと勝負している「土俵」そのものが異なっているのです。他人の「穴馬券」に、「あの人は運がよかった」と思っている時点でもともとその土俵にすら上がっていないのです。「たかが馬券の話だから……」とも思いがちですが、「終わったこと、他人がやったこと、言ったことを見てから発想する」という思考の癖は、そう簡単に切り替えられるものではないと言えます。



『やわらかい頭の作り方——身の回りの見えない構造を解明する』(ちくま文庫)

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