迷惑をかけあう社会に向けて

ケアってなんだろう?(前編) 

『ケアしケアされ、生きていく』の著者・竹端寛さんと、哲学者・永井玲衣さんに、ケアについて、また対話の大切さについて対談していただきました。ケアって福祉のことでしょ、自分には関係ないと(特に若い人は)思うだろうけれども、もっともっと身近で大事な概念なのだ。いつだって私たちはケアをする立場でもあり、される立場でもあるのだ。

福祉はイノベーティブでおもしろい

永井 特にケアという、漠然としていて、仲間と話すのにはあまりにベタに聞こえてしまうことを彼らに届く言葉で、というのはすごく大事ですよね。ケア? 知ってる知ってるみたいに言われちゃうところを、これは大事な概念だからって何度も掘り起こさないといけない。それを学生たちに届く言葉で書くには、どういうことを気にかけたんですか。

竹端 僕は、福祉社会学が専門で、ゼミ訪問で学生が来ると、福祉って暗いんじゃないんですかって必ず言われるんです。福祉というのは不幸だったり可哀(かわい)そうだったりする人の話だって言われるのが、死ぬほど嫌いで。なぜかと言うと、実は、ケアとか福祉というのは、悪循環の状態にいるような人が、好循環になるためのものなんです。だから、すごくイノベーティブでおもろい営みのはずなんです。例えば、うちの6歳の娘がケアを必要としてる時は、お腹が減ってたり、疲れてたり、眠たかったり、不安で泣き叫んでたりする時なわけです。その状態は確かに不幸なんですが、適切なケアをすることによって、お腹いっぱいになった、安心して寝られた、不安な気持ちが抱っこされて落ち着いたとなったら、ハッピーになるわけです。だから、可哀そうとか、不幸な状態かというと違う。そういうことが、すごく大事なんだけど、18~20歳くらいの学生たちは、全くそれに気づいてない。もっと言うと、20歳の子が、お肌のお手入れはしてるかもしれへんけど、ほんまの意味では、セルフケアができてないっていうか、人のことばっかり気にしてしまって、自分をきちんと、豊かに満たすとか、自分の言葉を喋(しゃべ)って、自分として生きていくみたいなことができてないなと思って。そういう彼女や彼に届ける文章ってどうやって書けるんやろうかなってのが、頭の中にありました。

セルフケアという言葉の危うさ

永井 自分を気にかけるという、セルフケアが今すごく流行(はや)ってますよね。なんでかわかんないんですけど、私のところにセルフケア系の取材とか原稿依頼がめちゃくちゃ来るんです。なんで私がって毎回思うぐらい。

竹端 自分の言葉を取り戻すためのセルフケアっていう視点で、永井さんが着目されてるんじゃないですか。

永井 セルフケアについて、なんか知ってそうみたいな勝手なイメージがあるんです。でも私、毎回答えるたびに、なんだそれってなっちゃうんです。竹端さんは、セルフケアという言葉が持つ危うさについてもすごく指摘をされてますよね。なんか、高いバスタオルを買うことの言い訳になっていたりとか。

竹端 消費と連動したセルフケアね、うん。

永井 そうやって物を買ったり、あるいは、ちょっと息抜きをして、明日から死ぬほど労働しようっていう、合間のセルフケアみたいなものとか。

竹端 自発的隷従のためのセルフケアね。

永井 かっこいい言葉で言ってくれる(笑)。セルフケアというのを、ほぐしてみると、「セルフをケア」じゃなくて、「セルフでケア」だと思っているんですよね、そういう人たちは。

竹端 孤立するケアね。

永井 そうやってケアというものがすれ違っていく中で、竹端さんが捉えたいセルフケアはどういうものですか。

竹端 基本的に人は関係性の中で生きてると思うんですよ。その中で、多くの人は関係性の豊かさではなく、関係性のしがらみや生きづらさ、息苦しさの中で窒息しているわけです。そういう時に、窒息している人が自分の息を取り戻すということが、僕はある種のセルフケアだと思っています。

永井 なるほど。

竹端 さらに言うと、それは自分の言葉を取り戻すプロセスでもあるなと思ってます。永井さんのとこにセルフケアの取材が来るのはまっとうで、永井さんの哲学対話は、多分、自分の言葉を取り戻すための対話ですよね。

永井 そうですね。しかもそれは、自分の力でやらないっていうところがすごく大事で。この「ケアしケアされ、生きていく」っていう言葉、その通りなんです。対話ってなんですかってよく聞かれるんです。その度ごとに、「いや、なんですかね?」とか言って、みんながぎょっとするんですけど……。あなたがいなければ考えることができなかったっていうのが対話だと思うんです。あなたがいなければこの言葉は出てこなかった、あなたがいなければ考えなかったということが起きているっていうのが、対話的で、つまり聞き合う、響き合うっていうことだと思うんです。自分の言葉を取り戻していくと同時に、さっき福祉がクリエイティブだっておっしゃったんですけど、すごくクリエイティブな時間だと思っていて。誰かが言うから、それを「あ、それ私の言葉だ」って発見したり、そこと混ぜて作ったりとか、そういう感覚ですね。

竹端 全く打ち合わせしないで、こんな展開で話が進んでいるんですけど、こういうこと自体がクリエイティブなわけです。かつ、例えば永井さんもそうだと思うんだけど、本当に対話は一期一会なので、今日、オンラインじゃなく、下北沢のB&Bで永井さんと対話するから出てくる言葉があると思うんです。逆に言うと、これがオンラインで喋ってたら全然違うと思うし、違う相手やったらもちろん、違うし。だからこそ、この一回性の中に、生きてる面白さみたいなのが僕は出てるような気がします。僕は基本的に面白くなきゃ対話じゃない、と思っているので。

 一人でも二人

竹端 セルフケアって一人でするものだけではないかもしれない。今日、僕は、永井さんと喋ってて、めっちゃ楽しませてもらってるという意味では、僕のセルフケアなんですよ。そういう風に考えた時に、共に行うセルフケアもあるかもしれないな、と。

永井 まさにそう思いますね。なんか一人きりでやることみたいなイメージが出ちゃうけど、セルフケアすらも他者と共に在る方が、ヘルシーというか、楽しいという。

竹端 焚(た)き火なんかもそうじゃないですか。火に当たってて、人と一緒に居るけど、喋ってなくて、まったりしてるだけだったりする。でも、そこに誰かと共に在りながら、自分はじんわりしてるみたいな、そんな感じがする。

永井 そうですね。しんどいセルフケアって一人ぼっちで、自分自身と二人っきりになっちゃうのがしんどい気がする。これはぜひ竹端さんに聞いてみたいんですけど、福祉の文脈でも、私すごい大好きなNPO抱(ほうぼく)っていう 困窮者支援をしているところがあって。

竹端 奥田(知志)さんのところですね。

永井 はい。奥田さんがよく聖書の創世記の神がアダムを作った後に、 人は一人でいるのはよくないって言って、二人目としてイブを作るという描写の部分をよく引かれるんです。 そこに私は、人はもう1行足したくて、一人で生きるのは良くない、だが二人きりもよくないって、書きたいんですよ。二人きりって、もう息が詰まって、福祉やケアの場で、二人しかいないというのはすごくしんどい。

竹端 密室のケアは危ないです。

永井 そういった時に、一人っきりのセルフケアって、それとすごい似てると思ってて。私が私をという密室のケアになっていて危ないなって思うんです。

竹端 だから、「哲学対話」もそうだと思うんですけど、いかに場を開き、自分を開くのかっていうことの中で、ケアされていく部分があるように思います。今、頭の中で浮かんでるのが、河合隼雄が、『こころの処方箋』(新潮文庫)の中で、「一人でも二人、二人でも一人で生きるつもりができているか」っていう名言があったんですよ。これってどういうことかなって、僕は18歳で、河合隼雄が好きになってから、30年ぐらいずっと、その言葉を自分の中で転がしてるんです。セルフケアというのも、それが一人で、閉じこもってしまうとやばいけど、例えば、想像上の永井さんが居て対応してたらどうなるだろうとか。あるいは、そういう風な形で開かれていくと、自分の気持ちも開かれていく。逆に言ったら、例えばそこに他者がいても、全くそこで対話してない、繋がってないと思ったら、全く一人になってしまうわけじゃないですか。二人でいても、それは開かれてないっていうことになります。セルフケアということを考えた時に一人でいても二人と思えるようなことは、セルフケアになってると思うんですよ。

永井 一人でいても、二人でいるようなケア。

竹端 開かれてるというか、自分自身が豊かになっている。逆に言うと、いくら、お互いにケアしましょうって言っても、ちゃんと繋がってないと、全く一人になってしまうっていう意味で、自分自身も追い込まれていくという部分があるような気がします。

 

 

2024年3月11日更新

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竹端 寛(たけばた ひろし)

竹端 寛

1975年京都市生まれ。兵庫県立大学環境人間学部准教授。専門は福祉社会学、社会福祉学。主著は『「当たり前」をひっくり返す――バザーリア・ニィリエ・フレイレが奏でた「革命」』、『権利擁護が支援を変える――セルフアドボカシーから虐待防止まで』(共に現代書館)、『枠組み外しの旅――「個性化」が変える福祉社会』(青灯社)、『家族は他人、じゃあどうする?』(現代書館)など。

永井 玲衣(ながい・れい)

永井 玲衣

哲学研究と並行して、さまざまな場所で哲学対話を幅広く行っている。エッセイの連載、坂本龍一・Gotch主催のムーブメントD2021などでも活動。著書に『水中の哲学者たち』(晶文社)。詩と将棋と念入りな散歩が好き。

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