体系だってないのがいいですね
永井 『ケアしケアされ、生きていく』を読ませていただいて、すごく包括的なのに体系立ってない、いい本だなと思ったんです。
竹端 包括的なのに体系だってない、その心は?
永井 体系立ってるというのは、もちろんいい意味の時もあると思うんですけど、ケアということと関連して考えると、とてもケアから外れるというか……。
竹端 はい。
永井 体系というのは、組み立てて構築して、これが来たらこうなるよねという、その必然性を見せることですよね。これさえあればいけるぜ! みたいに見えてしまうけれども、この本はそうじゃないですよね。竹端さん自身のもがきとか、わからん! とか、できなかったというため息がたくさん入り込んだ、包括的な本だと思うんです。そして、章立てが本当に素晴らしいと思いました。第一章の「ケア? 自分には関係ないよ!」っていうのは、私たちが一般的にそう思っちゃうことです。
竹端 僕も子どもが生まれる前には、自分には関係ないって思ってました。
永井 第2章で「ケアって何だろう?」とケアを探求的に書いて、第3章は「ケアが奪われている世界」と続きます。これは、すごく重要です。ケアということについて、私たちがここまでピンとこなかったっていうのは、ケアを覆い隠している何かがあるっていうことですから。最後に、「生産性至上主義の社会からケア中心の社会へ」で結んでいる。
この本を読んでいて、まず聞いてみたいと思ったのは、竹端さんは誰のことを考えながら原稿を書いていたのか、ということです。
20歳の学生たちに届く言葉で
竹端 本を書くときに、こういう人に読んでもらいたいなって届けたい相手を大体イメージしながら書くんですけど、永井さんの場合は想定読者って、いつも大体どんな風に考えてます?
永井 誰のために書くかということと、誰に向けて書くのか、は違うと思っていて。全体として言えば、もちろん自分のために書くんだけれども、必ず他者に向けて書こうと思っているんです。割と具体的な人の顔を思い浮かべることが多くて、それは「哲学対話」で出会ってきた人とか、書くごとに変わります。一番に思い出すのは、ある高校で授業をした後に、一人の学生がやってきて「先生、私に考えるっていうことがあることを教えてくれてありがとう」って言われたことがあるんです。私、言葉を失ってしまって。その時に、私もそういう子どもだったっていうことも思い出したし、大人も含めていっぱいそういう人はいるなと思うので、その言葉を頭に響かせながら書くことが多いです。竹端さんはどうですか。
竹端 今回の想定読者ははっきりしてて、うちのゼミ生なんです。20歳ぐらいの、自分に自信がなくて、すごく周りのことを気にして、「他人に迷惑をかけてはいけない憲法」に縛られている学生たち。僕が教えてる大学にはそういう子が結構いて、それはうちの大学だけじゃないと思うんですけど、彼らに届く言葉を書こうっていうのがすごくあったんです。