ちくま新書

皇居に残された最後の禁忌(タブー)を探る歴史ルポルタージュ

戦後封印され、国民の記憶から消えてしまった皇居の靖国「御府」。戦没者の慰霊・顕彰と天皇が結びついていた「かたち」の知られざる一端を明らかにする、8月刊行ちくま新書『天皇の戦争宝庫』の序章を公開します。

存在が隠されている皇居の一角

 近年、皇居は次々と開放されている。 二〇一四年に天皇陛下の傘寿(八十歳)を記念して、宮内庁庁舎前から北の丸公園側の乾門までの乾通りが一般公開され、春の桜、秋の紅葉のシーズンに二十―五十万人もの人々が皇居内に入ることができるようになった。
 従来から宮殿前や二重橋などを巡る皇居の一般参観が行われていたが、事前申し込みが必要で平日のみだった。これが一六年六月から土曜日も実施され、当日受付でも可となった。一九六八年から一般開放されている東御苑は外国人観光客で日々にぎわっている。
 皇居の深奥、吹上御苑にも一般人が足を踏み入れることができる。抽選による少人数とはいえ、毎年春秋に自然観察会が行われている。ネットでグーグルの衛星画像を見ると、御所や宮中三殿を含め皇居の隅々まで丸裸だ。
 戦後七十年の二〇一五年八月には昭和天皇の終戦の「聖断」の場、大本営地下壕「御文庫附属室」の図面と映像も公開された。皇居の空間だけではなく、歴史の引き出しも開錠され、奥深くに隠れていた史実の現場がわれわれの目の前に現れた。
 戦前から皇居は観光スポットではあったが、「畏きあたり」という言葉が日常語として生きていた時代までは、近づく者は畏怖の〝電磁波"を感じたものだった。天皇の居住地である皇居は「禁中」ともいわれ、常人がけっして入ることのできない場所の代名詞だった。そこには見ても話してもならないタブー(禁忌)が存在する、と思われていた。
 現在の皇居にはもう未知の領域はなくなったかのようである。いま皇居を訪れる人たちは、浅草や築地市場と何ら変わらない感覚でお濠の内側を見て回っていることだろう。
 しかし、まだ外部の人間が踏み込むことをかたくなに拒み、その存在が隠されている一角が皇居にある。
 その姿は市販の地図やグーグルの衛星画像で確認することができる。なのに、何もないかのごとく、皇居を語る際にはそれは無視され、詳しく知る人間もほとんどいない。 それらは吹上御苑の南端にある。桜田濠を隔てて、憲政記念館(かつて陸軍省・参謀本部があった)と向かい合う場所だ。グーグルの衛星画像を見ると、樹木に囲まれて寺のお堂のような瓦葺きの建物がいくつか建っているのがわかる。
 これらはかつて御府と呼ばれていた。「ぎょふ」と読む。日本が近代以降に行った戦争の記念品・戦利品を収蔵した倉庫であり、戦没兵士の写真・名簿などを納め慰霊・顕彰する施設でもあった。戦後に近現代史や皇室を扱った文献で御府が登場するものは数件に過ぎず、これを主テーマにした歴史研究は皆無といえる。
 何しろ宮内庁が見学を許可しないので実物を見ることができない。建物の正確な配置を示した図面も存在しなかった。グーグルや市販の地図には実際とは異なった配置図が載っている。現場に立ち入って確認ができないための誤りだ。筆者が取材をもとに作成した「御府のエリア図」が、現状の御府の建物配置を正確に表した図の初出であろう。

 御府は計五つ造られた。各御府の名称と戦争、造営時期(資料によっては相違あり)は次のようになっている
○振天府(しんてんふ)=日清戦争、一八九六(明治二十九)年十月
○懐遠府(かいえんふ)=北清事変(義和団事件)、一九〇一(明治三十四)年十月
○建安府(けんあんふ)=日露戦争、一九一〇(明治四十三)年四月
○惇明府(じゅんめいふ)=第一次大戦・シベリア出兵、一九一八(大正七)年五月
○顕忠府(けんちゅうふ)=済南・満州・上海事変、日中・太平洋戦争、一九三六(昭和十一)年十二月
 御府のほか大砲など大型の戦利品を収蔵する砲舎や天皇のための休所、模型置き場などもあった。戦後に取り壊されたものもあるが、御府本体の建物はすべて往時の姿で残っている。

 

 

 御府造営の当初の目的は軍が戦場から持ち帰り皇室に献上した戦利品の収蔵庫だった。天皇の足下に戦利品が置かれることで、戦勝と軍の栄光はより権威づけられた。
 そして戦没将兵の遺影と名簿を置くことを明治天皇が発案したとされ、天皇によって戦没者が深く悼まれているという物語が国民に伝えられた。単なる倉庫ではなく、戦没者(軍人・軍属に限ってだが)の慰霊・顕彰施設であり、皇居内につくられた「もう一つの靖国神社」ともいえた。
 昭和の戦争期になると、「皇居の靖国」としての性格はより強められ、日中戦争以降は靖国神社に合祀された「英霊」の遺族らの御府参拝が慣例となった。
 国のため、天皇のため散華した英霊を、靖国神社と御府の「二社体制」で国家と皇室が手厚く慰霊している。その「ありがたさ」が国民を戦争へ動員する物語として流布された。
 しかし、太平洋戦争で御府の物語は破たんする。戦死した将兵の骨も回収できない負け戦では戦利品などあろうはずもない。兵士たちがどこでどのように死んでいったかもわからず、遺影の収集や名簿作りもままならなかった。
 戦後、御府は「忌むべき日本帝国主義、軍国主義」の象徴的施設とみなされる。昭和天皇の戦争責任が追及され、戦犯訴追もされかねない状況でそのような遺物が皇居に存在することは非常に不都合なことだった。御府は終戦翌年に廃止された。
 靖国神社も廃止の危機にあったが、宗教施設として生き残った。日本人の意識のなかでは戦没者の慰霊施設(繰り返すが、軍関係者に限って)として靖国神社だけが残り、御府は驚くほどきれいさっぱりと忘れられた。
 昭和天皇の没後、平成時代になって昭和史と昭和天皇に関してより深く研究されるようになったが、先にも述べたように御府についてその来歴を詳しく論じたものはまったくない。その文献・資料の少なさは、「忘れられた」「知られざる」というよりも、「消去された」歴史といえる。御府は皇居に残された最後の禁忌である。
 戦争に明け暮れた近代日本では戦没者の慰霊・顕彰は重要な国家事業だった。本書はその事業施設が皇居に存在した歴史を、多いとはいえない資料と証言でまとめたものである。
 近現代の日本の戦争、天皇の歴史のなかではすき間的なものかもしれないが、戦没者の慰霊・顕彰と天皇が結びついていた「かたち」の知られざる一端が御府の歴史で明らかになるだろう。
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 本書では明治期以降の旧漢字・旧かなづかいの文献を多数引用しているが、現代人が読みやすいよう、筆者の裁量で適宜常用漢字やひらがなに直したり読点を加えたりしている。引用文献中の〔 〕は筆者の注釈である。