ちくま新書

日本の原風景に出会う旅

8月刊『誰も知らない熊野の遺産』カラー写真満載の一冊です。 世界遺産が注目されがちな熊野ですが、それ以外にも見所はたくさんあります。 「はじめに」を公開するので、ご覧くださいませ。

 熊野へ通うようになってから、私は旅行ガイドをまったく見なくなった。

   熊野を知りたいと思えば、ただ歩けばいい。ほんの小さな川べりの船着場でも、朽ちかかった祠でも、無造作に積まれた石一つでも、目の前に現れるものには必ずそれが作られた歴史と、作った人々の生き様が内包されている。熊野で圧倒的なのは、どれほど人を寄せ付けないように見える深い森でも、切り立った崖でも、足を踏み込めば必ず人の痕跡があることだろう。「これは一体何だろう?」「なぜこんな所に?」些細な疑問でも、感じればすぐにふもとの家の戸を叩き、この地に暮らし続けてきた人々の教えを乞う。そうすれば、どんな書籍にも論文にもない思いもよらない奥深い世界が開けていくのだ。熊野を歩き回ることは、美しい不思議に満ちた海の中をひたすら泳いでいくのに似ている。熊野の実際の地理的な広さ、歴史の時間的な深さが膨大なのはもちろん、地元の人々、過去の時代の権力者、巡礼者、地元へ出入りする行商人、その他思いもよらぬ人々が熊野を往来し、人々の数だけ「熊野」は多元的に広がっているのだ。そして、熊野で鮮烈に見せつけられた人の歴史や信仰や生き様というものは、そのまま日本の他の地域にも、日本人というものにも繋がっていく。

 例えば、本書に掲載できなかったテーマから拾えば、和歌山県の古座川の支流添野川上流にぽつんと鎮座する「いくさ地蔵」一つでも、過去の日本を思い出させてくれる。戦国時代から太平洋戦争に至るまで、たとえ辺境の小さな村でも繰り返し若者達が招集され失われていったこと。鎌倉時代、人を救済する地蔵でありながら戦を司る「勝軍地蔵」が生まれ、一世を風靡したものの、戦後急速に忘れ去られたこと。いくさ地蔵は勝軍地蔵の名残と考えられること。近年は受験生の信仰を集めていると聞いて「いくさ」の意味の移ろいを感じる一方、自衛隊員お参りのニュースから、現在も戦は決して遠い世界の話ではないことに気を引き締められる。

 また熊野には平家の落人部落とされる土地が多いが、その一つ「篠尾」集落について調べると意外なことがわかってきた。篠尾は、人家のまったくない狭い渓谷を車で一時間近くも遡って突然山上に開ける不思議な田園集落でまさに隠れ里のイメージである。が、篠尾の尾根上は大峰奥駈道であり、現在の学区が決められる以前は、若者たちは奥駈道を越えて隣県の高校と通っていた。そして、十津川の廃仏毀釈の嵐が吹き荒れた明治初頭、篠尾は和歌山県側の集落であるにもかかわらず、奈良県側の影響を受けてお墓や祠に榊を供えるようになった。一見いかにも隔絶された土地に見えても、その向こう、奈良県側とは昔から日常的に繋がっていたのだ。私たちが一方的に、もうこの世の果てだと思っている山の頂の、さらにその向こう側に普通に世界は広がっているということを、篠尾の事例は教えてくれる。

  そして熊野には「移動する集落」がある。奈良県上北山村の天ヶ瀬集落の人々は、大峯奥駈道の笙ノ窟を守る修験一族で、もとは山中に居を構えていたが、時代とともに天ヶ瀬に下ってきた。その天ヶ瀬も、私が訪ねた時はもはや誰も住まない廃村で、村は消滅したかに見えた。が、人々がさらに下流の西に移住しただけで、集落集団としての「天ヶ瀬組」は今も健在だったのである。土地に縛られない「村人」の概念は、地図上の地名で集落を捉えることに慣れてしまった現代の私たちに驚きを与えてくれると同時に、日本古来の氏子の意味を改めて考えさせてくれる。

 一方、「古座河内り」のように、難しいことは考えずただ惚けて見ていられる美しい祭りもある。極彩色に飾られた御船が海から古座川を遡り、不思議な調べを吟じながら御神体の島を回る。同時に周囲の村々からは、陸路や水路を獅子舞屋台が集ってくる。船から豪快に花火の白煙を上げ、若者たちが飛沫をあげて川に飛び込む。私は最初、あまりにも色々な祭事が同時に行われるので、その祭りの意味を捉えようと必死に聞き取りを進めていたが、実はもともと別の日に行われていた各集落の夏祭りを同じ日に開催するようになったものと知って力が抜けた。同じ日に、海と川の祭りを同時に見られる贅沢。今でも私にとっては憧れの美しい夏の粋である。

 そして十六世紀の終わりと十七世紀のはじめに、天下統一に抗って二度も蜂起した「北山一揆」、江戸時代末期に全国に先駆けて倒幕運動を起こし、時期尚早すぎて鎮圧された「天誅組の変」、日露戦争後、西洋思想を積極的に取り入れたために明治政府にターゲットにされ、熊野地方だけで六名もが死刑・無期懲役となった「大逆事件」などは、独立心旺盛で権力に屈しない熊野人の気性をよく表していると思う。これらも詳しく書きたかったが、残念ながら本書に入れ切ることはできなかった。

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