単行本

突入します

 本を読むときのTPOを、けっこう、気にする。
 それはたとえば、結婚式に列席している最中にこっそり『カラマーゾフの兄弟』を読んではいけない、だの、夫の実家に行ったときにみんながうち揃った夕餉の食卓において食前の祈りを唱えようとしている義父のすぐ脇で『卍』を読むのはまずい、だのといった「してはいけない」類のことではなく、『猫のゆりかご』を読むのは、平日の昼間のコーヒー屋さんやデパートの屋上のベンチがいい、とか、『金閣寺』ならば夕方の博多ゆきの新幹線の中がぴったり、とか、『こころ』だったら授業中、それも五時間めの倫社の時間がいい、といった「適した」感じについてである。
『ねにもつタイプ』のゲラを送ってもらったとき、黒いダブルクリップで右上をはさまれた紙の束を両てのひらで強く掴みながら、それではいったいこの本にかんするTPOは、どうしたらいいのだろうかと、途方にくれた。

『ねにもつタイプ』は、前置きなしに「突入」する。
 たとえば冒頭の一篇「ニグのこと」のはじまり。
「幼いころ、私には何でも話せる無二の親友がいた。
   それも三人。名前は、大きいほうから順に、大ニグ、中ニグ、小ニグといった。」
 冒頭の、それも一行めから、これである。たとえば「最初の一行からその作者の世界にひきずりこまれるような書き出し」などという言い方が、ときどき小説の感想文に使われるけれど、『ねにもつタイプ』の場合、「その作者の世界」とか「書き出し」などといった、なんだかふつうの感じのものとは、ぜんぜん違う。
 もっとこう、ずい、ずい、とくるものだ。
 大ニグ。その単語を目にした時にわたしが感じたのは、「そんなの知らない」という気持ちではなかった。「ふうん、そういうものがあるのか、目を開かされたようだ」、でもなかった。
「そうだったよなあ。この世には大ニグというものがあって、どうして私、そんな大事なことを忘れていたんだろう」
 だった。
 この、前世から定まっていたことなのに忘れていたことを急に思い出させてもらう、その感じを、私は、「突入」とよぶのである。
 岸本佐知子の書く文章以外に、私はその感じをみたことがない。少し似たものはあるけれど、もっとずっとやわだ。こんな剛直な突入ではない。こんな有無をいわせぬ突入では、絶対にない。

 なにしろ「突入」だから、岸本佐知子の文章を読むTPOには、細心の注意を払わねばならない。新幹線で読むと、隣の人に気味悪がられる(ぐふふふという笑い声をたてたり口をひょっとこのようにとがらせたりしてしまうので)。授業中に読んでいると、文章からたちのぼってくるただならぬ妙な気配を気取られて、先生に取り上げられる(そして職員室でそれを読んで魅入られた先生からは決してもう返してもらえなくなる)。デパートの屋上はちょっといいかもしれないけれど、売店でチケット購入して食べる玉子入りおろしうどんの汁が頁にとぶので、これは避けたい。
 それで、結局ものすごく迷ったすえ、私はずっと枕元に『ねにもつタイプ』のゲラをそなえ、ある日午前四時半にぽっかり目が覚めてしまった時を待つことにした。そなえはじめて三日後、運よく四時三十二分に起きたので、慎重に読みはじめた。読みおわったのは八時十七分だった。その時にはもう私はすっかり突入してしまって、帰ってこられなくなっていて、道に迷っていた。
 ようやく帰ってこられたのは、翌日の午後十一時三十分ちょうどだった。帰ってからこどもに「お母さん、この二日間、どんな様子だった」と聞いたら、「ちょっと茄子色っぽかった。はしっこのあたりはアボカドのなかみがかってもいた」と言われた。
 危険な本である。くれぐれもTPOを間違えないよう願う所存である。

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