ちくま文庫

私とちくま文庫
ちくま文庫30周年記念

 ちくま文庫はとても便利である。夢野久作、中島敦、堀田善、坂口安吾のような、いわば歴史的な中堅どころの作品を読みたいと思うと、私の場合はちくま文庫になる。古典落語もある。私の本も文庫にかなり混ざっているけど、これは読まない。自分の本は読みたくない。長生きをすれば恥が増える。考えたくもない。
 以前、遠藤周作がそう書いていた。そんな気がする。思い出すと恥ずかしいことばかりで顔が赤くなる。若い時にそれを読んで、そんなものかなあと、半信半疑だった。いまではよくわかる。年をとると物忘れがひどくなるが、適応現象かもしれない。思い出したくないことを忘れようとして、ついでに必要なことも忘れる。
 長年にわたって本を読んできた。これも恥ずかしいことのうちである。論語読みの論語知らず。それは俺のことか、と思ったりする。読んだ割には中身が頭に入っていない。どこに行ったのかしら。もっともこの種の記憶には番地がついていない。自分が話したり書いたりしていることは、以前どこかで読んだことかもしれない。でもその記憶がない。番地の記憶がないと、すべては自分の考えだと思ってしまう。
 読書の勧めを書かされたりすることがある。これも恥ずかしい。読書には社会生活上の問題がある。読んでいる間は、他人のことを構わないからである。現代では他人を構わない時間がどんどん増えているんじゃないか。そういう疑いがある。以前はその時間を読書が占めていた。いまではネット。
 ネコだって、それを知っている。だからキイボードの上に上がり込む。さもなければ、膝に上がり込んで、右手の上に頭を載せる。マウスが使えないようにする。俺のことを構え。そういっているらしい。最近はさすがにうちのネコも大人になったようで、そういうことをしなくなった。でも後ろの机の下でグーグー寝ている。いびきをかく。それが聞こえてくると、当方の勤労意欲が減退する。ネコが寝ているのに、なんで俺が働かなきゃならんのだ。直接に邪魔なんかしなくても、そばで寝ているだけで、ネコの存在を意識する。ネコは魔物というけれど、しみじみそう思う。自分は徹底的に省エネ、寝ているだけなのに、ちゃんと注意を惹きつける。仕事を妨害する。
 電車に乗ると、ほとんどの人がスマホ片手になにかしている。これじゃあ、本を読む暇はないわ。他人に直接には関わらない、そういう時間は以前は読書だった。いまではそれがスマホになった。読書が衰退したというより、他人に関わらない時間を書物とスマホが取り合っているように見える。文庫本は持ち歩きが便利で、電車で読むにはちょうどいい。スマホのおかげで、そういう利用法が減ったに違いない。
 以前は旅行に出るとき、本の種類と数で悩んだ。旅の途中で読み終わったら、どうしよう。いまはその心配はない。キンドルを持っていけばいい。電子書籍という堅い言葉があるけれど、要するにキンドル。私は古いから大判を使うが、普通はサイズが文庫と新書の中間で、どちらでもいいんだろ、という感じ。電子版と本とで、読む印象は違うだろうか。私は違うと思う。本だと中身がしっかり頭に入るような気がするが、電子版だと読み飛ばす感じになる。でもこれはきわめて主観的。だって全文をパソコンに入れてしまえば、検索は自由自在、この方がしっかり頭に入るんじゃないか。いや、頭に入れる必要もない。検索すりゃあ、いいんだからね。
 ともあれ大変な世の中になりましたなあ。人類の知的財産なんていうけれど、頭の中はほとんど外注になった。私は間もなく命が尽きるから、知ったことじゃない。あとは皆さんで考えてくださいね。

2015年6月1日更新

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養老 孟司(ようろう たけし)

養老 孟司

1937年神奈川県鎌倉市生まれ。62年東京大学医学部卒業後、解剖学教室へ入る。95年東京大学医学部教授を退官。現在、同名誉教授。著書に『ヒトの見方』『からだの見方』(サントリー学芸賞)『唯脳論』『カミとヒトの解剖学』『からだを読む』『無思想の発見』(以上、筑摩書房)、『身体の文学史』『バカの壁』(毎日出版文化賞)『死の壁』(以上、新潮社)、『いちばん大事なこと』(集英社)、『養老孟司のデジタル昆虫図鑑』(日経BP社)、『まともな人』『ぼちぼち結論』(以上、中央公論新社)など多数がある。