以前、ある作家から聞いた話が忘れられない。その方の読書歴を伺ったところ、初めてきちんと本を読んだのは大学時代、スタンダールの『赤と黒』だった。選書の理由は、
「スタンダールの『赤と黒』を持って歩いたらカッコいいかな、と思って」
作家となった今だからそう言えるのだろうが、素直な言葉に驚きつつも「どんな理由だって、本を手にするきっかけになったんだからいい」と思った。
読書はなぜか高尚な行為だと思われている。実際読書には苦労があるので、ただ楽しいだけの娯楽ではない。「趣味は読書」という人は少数派と言われているが、意味なくしんどい思いをしたい人などいないだろう。
ところで本書の冒頭には、こうある。
「超速読力」とは資料や本をパッと見た瞬間に、内容を理解し、コメントを言える力のことです。
そんな魔法のような力があれば、どんな本も読めてしまうではないか! 読めない方、読まない方に俄然勇気を与えてくれるだろうが、この力のポイントは「コメントが言える」というところ。
端的に言えば、本を「読む」のではなく「使う」のがコツだ。ただ読んでいるより、体を使った方が芯まで浸透する。どうやって本を使うか、その方法が具体的に綴られている。
たとえるなら町内会の盆踊りで、とりあえず踊っている人を真似て体を動かしていくと、頭より体が動きを覚えていく、それと似ている。頭を使うな、というわけじゃない。固定観念に縛られないということが大事なのだ。
「最初から順番に読んでいく、という呪縛を捨てることから始めてください」
小説など頭から読み進めていることを「農耕型読書」と呼び、それ以外の資料、ペーパーなど、とりあえず目についた獲物を狩ることを「狩猟型読書」と定義し、本書ではあえて後者を薦める。このやり方を利用した授業では、学生たちが書いてきたエッセイを互いに読みあって、コメントを言う。読む時間はA4の紙一枚十五秒。こんなスリリングな授業から超速読力を磨いていくのだ。
わたし自身も常に数冊を併読しているが、齋藤先生の読み方には圧倒されてしまう。そのうえ、自身が築き上げた超速読力の中身を惜しみなく与えてくれる。
正直に言えばわたしの読み方は決して速読ではない。逆の読み方をしているところもあるが、それでも共感するところが大いにあった。そのひとつはまず読むというハードルを下げているところだ。
「読書は良い」と言うだけでは、人は読んではくれない。こうして先生自身の読み方を明かし、読み続ける姿勢を見せてくれる、このことが貴重なのだ。
本から得るものは読み手によっても本によっても違うし、誰に教えられるものでもない。最初から答え(結末)がわかっているなら、そもそも読む面白さも得られない。読むということは、つまり少し先の自分を作ることなのだ。自分の未来を面白くするのは自分次第。
もうひとつ、本に線を引き、付箋を貼って読むことを薦めているが、これこそ本を「使う」こと。自分のアンテナに反応した部分を記すうちに、本が自分だけのオリジナルになっていく。もう一度読み返したり、気になった箇所を確認するのにも役に立つ。超速読力を身に付ければ、たくさんの本に出合える機会が増える。それは自分に水をやり、肥料を与え、成長を促すのと同様だ。
冒頭の作家の言葉ではないが、読む人はカッコいい。なぜかといえば、自分の知らない世界を知ろうとしている、あるいはすでに知っている人だと思うから、素敵に見えるのだ。