わたしは、本を読むとき、付箋を貼りながら読む。下半分が透明になっている細い付箋で、9色がセットになっているので、それを適当に選びながらくっつけていく(今数えてみて9色だと初めて知った。9。色のセットとしてはあんまりない数字だ)。
『本は読めないものだから心配するな』の上の部分からもいくつもの付箋が飛び出ている。しばらくぶりに手に取ったこの本の、赤や青の目印がついたそこを読んでみる。
確かにここに自分は付箋を貼っただろう、と思う箇所もあれば、その時間の自分はこういうことが気になっていたのだと思い出させてくれる箇所もあり、そしてその前後の目にとまった言葉からまた読み始めてしまう。入口がそこかしこに開いている本なのだと思う。
もちろんこの本には、本のことだけが書かれているわけではない。言語、映画、歴史、旅、写真、翻訳……。
ある本から別の本が、映画からどこかの風景が、想起され、記憶から浮かび上がり、いくつものことが流れ込むように、揺れ動きながら、読む人をどこかへ運んでいく。本の話であると同時に、場所の話であり、時の話であり、記憶や人の話でもあって、人が本を読むときには言葉は、何層もの光景を含んで、そこにある。
以前、奥泉光さんと夏目漱石について対談したとき、奥泉さんは、小説はタイトルを読んだだけでももう読んでいる、そして、最後まで読んでも読み終わらない、と話していた。本棚に並んだ背表紙を見ているだけでも、読んでいる、と。
わたしたちは、常に読んでいて、読むことの中にいる。
「本に「冊」という単位はない。とりあえず、これを読書の原則の第一条とする。本は物質的に完結したふりをしているが、だまされるな」
「ところで、映画は忘れる。どうしても。でも本も忘れる。忘れれば忘れるほど、見直すたび読み直すたびに新鮮なんだから、それでいいじゃないか。それは負け惜しみ。あまりに忘れるから絶望的な気分になる。だが覚えている部分もちゃんとあるのだから、ある映画をたしかにあるときには見たし、ある本をあるときにはたしかに読んだわけだ」
アニエス・ヴァルダの「5時から7時までのクレオ」(に映っていること、で起こること)について書いたあとに、
「たぶん、以上のような流れで大きなまちがいはないと思うのだが、やっぱりあまり自信はない」
と、書いてあって、わたしはこの不確かさを信頼する。
わたしの部屋には、たくさんの本がある。壁のあるところは全部本棚だし、その本棚は前後二列に詰めてあるし、床にも積み上がっている。四十代も後半になり、全部は読めないんだろうな、という気持ちが少しずつ大きくなってきた。もちろん、そんなことは最初からわかっていた。この部屋にある本は、本の中のごくごく一部に過ぎないし、圧倒されるような大型書店も、巨大な迷宮のような図書館でさえも、本の全体の一部で、人が読むことができるのはその欠片の欠片のさらにほんの点のようなものかもしれない。
これは矢印を一方向に考えているからだった。点から欠片へ、本棚へ、歴史を積み重ねた図書館へ、その向こうへ、つながっていくとも言える。
本は数え切れないほどすでにあり、それでも/だから、わたしたちは、本を読もうとする。買ったり、借りたり、手放したのにまた買ったりして、ページを開く。開けば、そこにある言葉を読む。ほとんど自動的に。
「ぼくにとっては本はつねに流れの中にあり、すべての本はこの机に一時滞在するにすぎず、何らかの痕跡を残して、必ず去ってゆく」
この本の痕跡は、わたしの中にあり、別の本の中で見つけることもあり、次第に他のたくさんの痕跡と重なり合っていく。